奈良暮らしから

還暦もとうに過ぎて、地縁も人とのつながりもないまっさらな土地での生活が2011年10月から始まりました。
なぜ長年住み慣れた東京を離れて奈良に移住したのか、その理由は自分でもうまく説明できません。

ただ思い返してみると、福井県で生まれ、その後熊野市、大阪市、伊勢市、熊野市、津市、和歌山市と紀伊半島のなかでも海に面した町ををぐるぐる巡るような転校生活で、半島のなかでも奈良県だけが空洞となっていたわけです。今回の移住はこの空白を埋める格好となりました。

奈良県と言っても県土は大変広く、平坦な土地は大和盆地のごく限られた地域のみです。
随分昔にこの盆地をクルマで通過したとき、この平坦さなら大和三山はじめ飛鳥地区、西の京など、歴史ある場所を観光するのに自転車が最適ではないかと思ったことがあります。運動不足解消のため数年前に始めた自転車ツーリングにはもってこいの場所かもしれません。

かつて30代の頃三重・名張でたまたま訪れた夏見廃寺が、その後の調査で実は大伯皇女の建立した寺だったと知ったとき、どういうわけか「わが背子を大和へ遣ると。。。」という歌を思い出しました。
古典の授業は苦手だったのですが受験勉強の弊害というか怪我の功名というべきか当時丸暗記した歌が記憶から消されずに残っていたのです。
調べてみると果たして作者は大伯皇女でした。そして、背子とは当時窮地に立たされていた実弟大津皇子のことだと知ったとき、心が強く揺さぶられたのです。
以来、いつかは万葉集、それも生臭い愛憎のからまる壬申の乱前後や天武・天智時代のことにもっと深く触れてみたいと思うようにもなりました。
今度の家は信貴山登り口の斜面にありますので、正面には大津の墓所がおかれたとされる二上山が大きくはっきりと見えます。これには何か不思議な縁を感じずにはおられません。

こんどの12号台風で随分痛めつけられた半島南部ですが、とくに1週間の雨量2,400ミリを観測した上北山村は母の生誕地と聞いております。母の生家には南朝に与したのかどうか倉には槍や刀、鎧などの武具がいっぱいあったということをよく聞かされていました。また、母の幼少期大工であった父(私にとって祖父)が東大寺の仕事で奈良市に住んでいたことなども聞かされていました。ですので、奈良とは心のどこかでつながっていたのかもしれません。

新婚生活が始まった神奈川県の団地の名前が奈良北。この春からの仮住まいはその隣接したブロックにあります。そして今度は奈良県と、ここにも「奈良」という響きにどこか吸い寄せられるような、不思議な縁というかつながりを感じざるを得ません。

このブログでは、万葉集ではなく俳句になってしまいますが、折々にふれて奈良暮らしという視点から詠み込んでいければと思います。

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