払底

樽買のボトル封切る夜長かな

年代物のウィスキーが品切れだそうな。

12年、17年といえば、いまやごくポピュラーな酒だが、メーカーでは想定以上の需要盛り上がりで値上げどころか、原酒自体が底をついてしまったのだという。
有名洋酒メーカーにいまも現役で頑張っているI君のところで、何回か工場見学をさせてもらう機会があったが、寝かせてある樽がずらっと並ぶところなどは壮観でさえある。聞けば、入社年に仕込んだモルトを同期一同で樽ごと確保できるシステムがあるそうな。
同窓会などで、そういう貴重なものを手土産に持ってきてくれるI君も太っ腹なら、メーカーもまたおおらかな社風で、いい会社とはそういうような企業風土が組織のすみずみにまで行き渡っているものであるらしい。
工場見学でいただいたミニボトルが封を切らぬまま棚に鎮座したまますでに数年経過している。この銘柄もいまやなかなか手に入らないものである。飲もうと思えばいつでも飲めるのであるが、ここまで時間が経過すると、もはや記念品を通り越して思い出に近いものになるので、なかなかそういう気にはならないのである。

三点セット

自然農赤のまんまの好きにさせ

畑に顔を出したところでたいした害はない。

秋の収穫が終われば、他の雑草ともども土に鋤込んでしまう予定なのだろう。
それにしても赤い蕎麦の茎とも、赤蜻蛉とも、三点セットでよく調和というか、競うというか、目の当たりが朱く染まるような紅の世界である。
ここはあとひと月もすれば新蕎麦採り入れの時期になる。

耳を澄ませば

小鳥来るさても年寄耳敏く

今日は年寄の日、老人の日転じて敬老の日。

毎年町から敬老会催しの案内がくるが、いまや5人にひとりが70歳以上というご時世に、相も変わらぬことを繰り返して何の疑問も抱かぬのだろうか。福祉施設に入っている人を大量に送り出せば、それなりに参加人員は満たせるだろうが、元気な老人は施設外にいっぱいいるのだ。
元気な年寄りはお仕着せの慰問など少しもありがたさを感じないだろうし、趣味も嗜好もまちまちでそれぞれが自分の生活を享受しているはずだ。
いよいよ老人大国に突入しつつある国の、年寄りたちが誰でもいつまでも元気に老いる施策というものに重点をおいたらいかがと思うのだが。

今日は朝起きたら耳慣れない声の鳥の声がした。ヤマガラなどはすでに目撃しているが、今朝のあれは何だったのだろう。
すでに、鵯が鵯らしい声で騒がしく鳴くような季節だが、鵙の声が待たれる時分となっている。

柵に接して

おしろいが咲いて列車に揺れる家

都会では往々にして軒を接するように電車が走る。

多くが高架に変わっているが、いまだに昔のままの路線も多い。それらは、たいがいが下町を走るわけだが、どういうわけかそういう家にはごく狭い場所にも花を咲かせていることが多い。
駅間も短く、スピードもあまり出さないから、満員の車窓からそれらの花を楽しむのがささやかな通勤の彩りである。
秋桜もいいが、やはり、この季節は白粉花がもっともしっくりするような空間である。

半世紀前のこと

鳶口に伐竹継いで杣の衆

村の外れから伐ってきた青々とした竹を燒く。

燒かれた青竹から油が滲み出て、やがて薄茶色の艶を帯びてくる。
火で焙れば竹の腰が強くなるのだ。それに、燒かれてほとぼりの冷めぬ間なら曲がった節を矯正もできる。
盆休みも終わってまた日常が戻り、今日から山の切り出しなのだ。
鉈を帯びた腰には野沢菜で巻いた目張りずしをつめた弁当も巻き、手には焙った竹に継いだ鳶口を握っている。
一同が揃うとめいめい三輪オートの荷台に乗って今日の山へ向かった。
今から5、60年ほど昔のことだ。

この機に乗じ

熱出して一房まるとマスカット
大阪を越ゆる山辺の葡萄園

卵なんて昔は病気のときくらいしか食べられなかった。

バナナも同類にはいるだろう。
まして掲句のような、マスカットなんて庶民の口には遠い遠い存在だった時代。
熱出せば、いいところが母の作ってくれた林檎のすりおろし。
それに、葡萄と言えばせいぜいデラウェアで、それも昭和30年代も後半からじゃないだろうか。いまでは、いろんな種類がふえてよりどりみどりだが、それでも大粒種となるとなかなか高価である。これを一人で平らげるというには勇気が要って、ほとんどが家族みんなでつまむのである。
寝込んだのをいいことに見舞いの葡萄がたちまち病人の胃袋におさまったか。

名門は消えるのみ

昭和にはありし社紋の秋扇

羽振りをきかせた会社の扇子をいまだに持っている。

古い鞄にしまったまますっかり忘れていたのを偶然発見したものだ。
よく見ないと分からないほど幽かな企業ロゴが隅に印刷されているだけの簡素なつくりだが、かえってそれが老舗の気品をたもっているようにも思えるのだ。