お大尽

粋筋を引き連れ二月礼者かな

これも死語に近い季語かもしれない。

意味は、仕事の関係などで正月に年始回りができなかったために、二月一日に年賀に回る人。また、その風習を言う。
正月興行で忙しかった役者、料理業界などに見られたという。
新暦となって、2月まで年賀の挨拶をしないということはないと思うので、俳人だけが遊べる世界ではないだろうか。
黒紋付のきれいどころを引き連れて、まるで成金のお大尽のような年賀である。目はもうきれいなお姉さんに釘付けである。

まほろばの冬姿

寒木瓜の粒の源平はつかにも

梅も咲いたが、木瓜もひっそりと咲き始めたようだ。

丈が低く、葉もまだ充実してなくて木そのものは貧弱に見えるせいか、足を停める人はまれのようだ。
ただ、屈んで目をこらせば、開き始めた花も小粒だが、ちゃんと赤白に咲き分けているようである。
大きな粒の爛漫の春はまだ遠いが、ひっそりと足下に並んでいる木瓜も今の季節には貴重なものである。
起ち上がって周りを見ると、大峯の雪嶺がはっとするほど国原の景色を引き締めている。これもまた、まほろばの姿である。

二月は雪から

探鳥の徑また梅を探る徑
梅一木また一木を探りゆく

先週、梅がほころんだ。

小さな梅園がいつもの探鳥を兼ねた散歩道の途中にある。通るたび必ず立ち寄るようにしていたが、蕾の様子を見るだけのつもりが、思わいもかけず開花しはじたのに驚かされた。
昨日はすでに何輪も開いていて、まさに毎日、梅一輪また一輪の歩みを見せている。
やがて、あっちの木、こっちの木と、スピードをあげながら本格的な梅の季節となってゆく。
今日は雪で外出は避けたが、二三日もすればまた違った景色が見られるにちがいない。

一月尽

枯芝を踏んでお靴の鳴らざりし

なるべく土の部分を歩く。

アスファルトやコンクリの舗道は突き上げてくるあの感じが好きになれない。
公園を散歩するにもできるだけ横道にそれて土の感触を楽しむ。これは距離を稼ぐ意味でも有効だ。万歩計こそ携帯しないが、通常ルートを行くより10%くらいは多いのではないか。
芝草のうえならさらに足裏に優しく具合がいい。
スキップを踏んでも靴は鳴らないが、地面の微妙な凹凸を感じながらバランスを取っているのがよく分かって、それだけで楽しくなってくるのだ。

昨日は、一年ぶりにトラツグミに遭えた。よく見るツグミとはちがって随分臆病のようである。
今日は、笹鳴きのウグイスが姿をじっくり見せてくれた。
先週末から早い梅がほつほつ笑い出してきたし、寒木瓜もポツポツ。明日からは二月。春はそこまで。

グレ竿

大北風に大青竹の堪へけり
北風や鵯棒のごと走る

葉をつけたものみながうるさく騒ぐ。

昨日はそんな一日だった。
孟宗の太竹も、まるでグレをかけた釣り竿のように大きくしなっては耐えている。
しかし、足下の竹林の中はと言えば意外に静かで、木洩れ日がさしているところなどは明るく温かそうな気もして、竹林というのは思いの外懐が深いように思えてきた。
いっぽうの、枯れた姿をさらしている落葉樹などは、骨まで軋むかと思えば、さらにギィーギィーと鳴きそのまま折れてしまいかねない音さえして、竹が柔ならば木々は剛という対比をまざまざと実感するできるのだった。

「北風」が季語だが、文字通り「きたかぜ」と読んでいいし、俳句ではよく「きた」とも読まれる。掲句では「おおぎた」と読む。
これは、「東風(こち)」、「西風(にし)」、「南風(みなみ、はえ)」と同じ用法である。

滑空

寒晴やセスナ低きに近く飛ぶ

林の向こうから急に爆音がした。

セスナが突然現れたのだ。
頭上百メートルもあるかなきかの低空だ。機体に書かれた識別記号はもちろん、操縦している者の顔さえ見えるかだ。
とっさに頭をよぎったのは、ここ一二年何回か八尾の飛行場を発ったセスナやヘリが事故をおこしていることだった。
思わず首をすくめたが、セスナはそんな不安や怒りを歯牙にもかけぬごとく国原を滑っていった。

孤高

凍鶴の眼中おかず吾も檻も

鶴は動物園でしか見たことがない。

檻の前に立っても、身じろぎもせずただ眠っているように首をすくめるときもある。
しばらく対峙していてもなんの反応をみせてくれないと、たまらず根負けしてしまって、急に寒さを感じてしまうものだ。
鶴ではなくて、散歩で見かける鷺の仲間も同じようなところがあるが、よく見てみると寝ているのではなくて、獲物を狙ってじっと動かずにいるだけのことの方が多い。
鴨の浮寝というのはどこかのどかという風情が伴うが、厳寒の鶴の寝姿は孤高そのものであろう。