悠久という虚しさ

旧蹟の無聊なぐさめ花野なす

平城京、藤原京は、ただただ、だだっ広い。

そのだだっ広さが、忘れられた都の跡という感懐を深くするのだ。
発掘した跡がいったん埋め戻されてただの更地になってしまうので、よけいその感が強くなるのかもしれない。
観光のため一画に花などを植えたりもするが、それすらも虚しいと感じてしまうときがある。

“悠久という虚しさ” への2件の返信

  1. 旧蹟とか城址など過去の栄光を背負っているだけにその跡地には虚しさがつのります。
    それが広ければ広いほど感慨深いものがあるのでしょうね。

    歴史の無常、栄枯盛衰の哀しみを禁じ得ません。

    1. 平の広大な跡地というのは、かつてそこが頻繁に人々が行き来したり、愛憎や悲喜こもごもの舞台であったことなどを考え合わすと、いろいろな思いが去来する場所でもあります。
      まして捨てられた都だけに哀れさはいっそう募りますね。

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