仏様になる

耳遠き妣には聞こえ亀の鳴く

実際に亀が鳴くことはない。

ないが、「鳴く」を空想して一種春のけだるい空気を詠んだりして、浪漫的な興趣を覚えさせる季題である。
老いて耳が全く聞こえなくなるとともに、記憶も随分定かでなくなってきた妣が、あるときついと振り向いて何事か言う。たいがいは人生の一断面をよぎった事柄を思い出してのことであるが、その顔はもう昔の母の顔ではなく、日に日に仏様のように穏やかになっていくように思う。息子はただ頷くだけある。

“仏様になる” への4件の返信

  1. 嗚呼、まさにわが母なり。
    凡夫には聴こえぬ声なき声が聴こえるのかも。
    そして母は仏に近づきつつあるのかもしれない・・・

    1. 言葉を交わすには筆談しかなくなり、ついには記憶も薄れかけてからは、母の言葉を静かに聞いてやるのが主になりました。ときどきは痛みを訴えるのですが、そうでないときは表情も穏やかになり段々と体が弱っていくのが分かります。人間も動物もこうして徐々に衰えながら死を迎える準備をしているのだと教わりました。
      米朝師匠の最後もそのようであったのだと、改めて母のことを思い出しました。

  2. 「亀鳴く」面白い季語ですね。何と藤原為家(定家の息子、百人一首の共同制作者の一人であろう)の歌から来ているよし。びっくりしました。
      川越のをちの田中の夕闇に何ぞと聞けば亀のなくなり

    そう言えば最近水温むとともに亀(といっても外来種)が出て来ました。鳴き声は聞こえませんが。。

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