蝉の声鐘の音

鐘涼し真神が原をさまよへば

いろいろ季材を探すのだが、これぞ秋というシーンはまだ少ない。

法師蝉も一声きり、桔梗も暑さのせいか元気がない。
早稲などは穂が育ちつつあるところもあるが、盆地のほとんどはいまだ花すら咲いてない。いまだ青田である。
きれいな水が流れる田には田螺が這い回る跡が目立つ。蜷の道だ。
そうこうしながら飛鳥をさまよっていると、飛鳥寺の鐘が聞こえてきた。この時期観光客もまばらで、耳に届くのはこの鐘の音と蝉の声。涼しさで言えば鐘の勝ちである。

自己責任

時期ずれの帰省の報も次子らしき

突然に帰省するという。

この気まぐれもいかにも次子らしい。
社会に出れば、最低限の知恵も備わるだろうから、好きなように生きて好きなように暮らすがいい。
それにしても、「自己責任」という名で生きにくくなった世であることよ。

大夕立

朝顔や保育児送る日々のまた

盆休みが終わって、お隣に静けさが戻った。

二児とも学童保育、幼児保育で昼間はいないので窓はしまったままだが、去年採った種から育てたという朝顔がいっぱいフェンスにからまっている。
昔からよくある紫がかった紅色で、この暑さを堂々と咲いている。
水やりは帰宅後されているようだが、今日は久しぶりの夕立でそれも不要のようである。
それにしても、今日の雷はしつこい。何時までも、稲光もなくただいつまでもゴロゴロと鳴るだけで、雨ともにいっこうに止む気配がない。
外に出ると、日中かんかんに照らされていた大地の熱が水蒸気とともにたちあがって、息がむせぶほど蒸してくる。雨後の涼しさなんて期待できるのだろうか。

逃れられない

渋滞を抜ける細道雲の峰

それは見事な入道雲が横並び。

暦の秋とはうらはら。
空も、地上の熱も悲しいほどに真夏である。
その向こうに台風が控えている空とは思えないほど碧い。
予報では15日くらいに10号が上陸するやもと。
このまま西日本に向かえば、8年前の紀伊半島豪雨と同じコースをたどるらしい。
歴史は繰り返すと言うが、自然も同じこと。小さな存在でしかないものはただ従うしかない。

ワンコイン

空にしてボトルに清水汲みにけり

滝もいいけど山清水、谷清水もいい。

苔清水、草清水もある。
ふくんでみて甘いな、うまいなと思うとボトルにつめて持ち帰りたくなる。
なかには、ちゃっかりワンコインで売ってる清水もあって商魂たくましい。

涼しさの尺度

打たれては滝を裏見の菩薩かな

東吉野吟行。

涼しかった。と言っても三十度はある。
盆地より五、六度低いから、それでも涼しいと感じてしまう五体である。
先月の兼題句会で「滝」を詠んだばかりなので、もうひとつ興が乗らなかったが、それでも実際の滝を前にすれば何とか見えてくるものがある。
今日の「投石の滝」は何年か前に見たときよりも水量が多く、そのすさまじい音に圧倒された。
近くには寄れないが、一直線に落ちる滝の後ろに菩薩だろうか苔生した石仏が飛沫を浴びながら鎮座されているのを詠んだのが掲句である。

真っ赤っか

夕焼の濃きを没して生駒かな

いいところを全部生駒がもってゆく。

夕焼けの一番濃い部分がいつも山の影に沈んでしまうのだ。
だから、生駒山地の東の麓にあるわが家ではきれいな夕焼け空というのを滅多に見ることがない。
梅雨の頃、大気にたっぷり湿気を含んだ夕空がそれこそ真っ赤になるほど焼けるのを見ることがあるが、当地ではまず見られない。
それだけが残念である。