我を忘れて

蝶二頭こんがらがりて空高く

揚羽の番のようである。

目の前でらせん状にもつれながらどんどん上昇してゆく。
天敵に遭遇する危険おかしてまで、いったいどこまで上がるのだろうか。
電線を越えてさらに高く遠くに流れていった。
柚子の葉っぱをみたら既に2センチほどに育った幼虫が二匹。またはげになるかもしれないが、どうぞ召しませ。

泥の家

戸を汚し巣をかけそめし燕かな

もしかしたら久しぶりにお向かいに燕の巣がかかるかもしれない。

戸の上の一羽と、電線の一羽が賑やかに声を交わしているのだ。
しかも戸口の上をよく見ると、泥らしきものがついていて、巣作りが始まったばかりのようである。
気にくわなければ放置してしまうかもしれないが、しばらくは見守っていたい。
あとはカラスのお節介がないことを望む。

弥栄に

改元の首都弥栄の若緑

お車をヘリからの中継でみられる時代の幸せ。

昔なら、不敬罪として厳しく罰せられたろうに。
国事行為としての各行事もテレビで、インターネットで生中継される時代。
放映では皇居から赤坂へのお車が、眩しいばかりの新緑のトンネルを縫うように進む。首都圏はまさにゴールデンウィークに相応しい晴の陽気となって、新天皇の御世を祝福しているようだ。
新元号だからと言って、べつだん何も変わるわけでもないけれど、昭和、平成、令和へと三代生きられる幸せに思いをはせたい。

紙一重を

引率はママより若い磯遊

昨日の月例句会の席題は「磯遊」。

先月もそうだったが、眼鏡をかけてないので白板に書かれた文字が見えない。
披講となってやっと知ることとなるが、作るとなると易しそうで意外に手強い兼題である。
というのも、たいていは磯遊びの内容になってしまって下手すれば季語の説明、そうでなくても類句のやまを築くばかりなのだ。
伝統俳句派、写生派となるとなかなかこの壁を超えられないのではないだろうか。ある意味説明句と紙一重のところを狙ってみせるのが真骨頂となるのだが。

エアポケット

行く春をひとり都心に惜しみけり

それは意外だった。

都会の新緑というものがこんなに新鮮に感じるなんて。
毎日緑に囲まれて暮らしていると、自然の移ろいなど当たり前のことだとみなしがちである。
だが、都心に一歩踏み込んでみると当然ながらコンクリートが圧倒的に空間を占めていて、そのわずかな隙間にいっせいに緑を吹いているコントラストの魅力というものがあるのだ。これが夏の盛りならばこれほどの驚きというのは感じないと思うのだが、やはり新緑のもつ旺盛な生命力の力であろう。
難波橋を降りた中之島公園の芝生には、近隣の高層マンションからやってきたと思われる若い家族が三々五々休日をのんびりと楽しんでいる。ゴールデンウィークの都心に生まれたエアポケットのような空間である。
公園のバラ園はいくつか開花するものもあったが、株の大半は蕾はまだこれからというところ。10連休が明ける頃はまた別の様相を呈していることだろう。

若葉の山をバックに

つばくらめ生駒山を高く飛ぶ日和

昨日とは一転しての低温。

高かった湿度も今日はからっとして、季節はひと月もどった感じだ。
そのせいかどうか、今日の燕はやたらに高いところを飛び交う。
若葉でまぶしいほどかがやく生駒山をバックに一羽、また一羽。
しかし、気のせいかいくぶん燕は少ないようにも思うがこの先増えるのかな。
いよいよ春は深まってゆく。

色気

腰曲がるをみな育くむ牡丹かな

相当なお歳をめしている。

その方が育てる牡丹が道路からもよく見えて、今が見頃である。
一株ごとに色の違うものがあって、どれも見飽きないほどいい色をしている。なかでも、白にやや薄桃がかったのが見事で見飽きない。まさに牡丹の妖艶な魅力をあたりに漂わせているのだが、お歳をめしたお人とのギャップがおかしくもあり、をみなの心のうちをのぞきみたような複雑な気持ちにもなったのである。