眠る

育苗にあてる辺りを冬耕す

駅からの近道は田んぼのそばを通る径。

さすがに夜は真っ暗で通るわけにはいかないが、ここを通るたびに近辺の田仕事の時節を教えてくれる場所である。
先日通りかかったら、田の隅だけに畔が切られて耕してある。そのほかの拾い部分はいまだ穭が青々としたまま残されたままだ。
おそい大和の播種だが、苗床だけは早々とその準備が整っているわけである。
これから半年近くの間、盆地の田んぼは長い休みに入るのである。

人間失格

家事の間縫ひ自分の畑を冬耕す

野良着というのではなく、普段着である。

小さな畑に鍬をふるっている。
一家が食べるだけほどの小さな畑である。
いかにも家事の合間を縫ってちょっとした畑仕事をこなしているという風情である。
そのシルエットをしばらく見るともなく眺めたいたら、ふとこんな句が浮かんできた。
もちろん、雨の今日ではなく数日前の光景だ。
人間らしく生きるためには、どんな小さな畑も、つねに耕しておかねばならない。
カルチャーとはcultivateからきている。culturedというのは心が練れたひと、教養あるひとのこと。
義父は書をやるひとだったが、仏間に「耕心田」と自書の大きな額をかかげていたのを思い出す。
人間だけが「耕す」ことを知っているのだ。
耕しを忘れたら人間失格であろう。

寒村に生きる

冬耕や腰の曲がりの年々に
冬耕や腰が曲がればそれなりの
機械化のおよばぬ山に冬耕す
冬耕やこの代にして途絶ゆるも
冬耕や父祖代々に恥ずるなく

過疎化著しい山村の田畑を想像してみた。

山里の機械化するほどのこともない、ほんの猫の額ほどの畑が寄り集まった小さな集落である。
今までは一日もあれば片付いていた冬準備も、歳を重ねるごとに二日も三日もかかるようになった。老妻の腰の曲がりも年々深くなってきているようだ。それでも、これら先祖代々めんめんと受け継げられてきた畑を放棄することなど考えられない。
こんな不便な山村ではどの家の息子も娘も都会に出てしまって、跡を継ぐようなことは彼らの頭には毛頭ないのも当然だと思う。

これら時代の流れとすればしかたがないことだ。今はただ日々の暮らしの安穏であることを祈るだけである。