隠り飛ぶ

山茶花にこもれる鳥の影動く

高さ8メートルくらいはありそうな山茶花。

ここは鳥がこもり飛んでいることが多い。花の蜜が目的のメジロや、シジュウカラなども姿を隠す目的に利用しているようだ。
大きな木だから、中にこもってしまうと気配はしてもどこにいるのか分からなくなる。ところが、今日たまたま日が傾いた時刻に発見したのだが、木を貫く影ができてそこに枝を移るかれらの動きもはっきりととらえることができたのだ。
この驚きを何とか句にしようと格闘するのだが、なかなかうまくいかないものだ。

朽ちるに任せ

山茶花の誰もとがめず散りゆける
山茶花の錆もふくめて愛でにけり

もう一か月以上になる。

いつ通ってもこの道は山茶花が散り敷いている。
上を見れば、大きな木に純白の花を誇っているのもあれば、盛りを過ぎて茶に変色してもなお頑張って散らないでいるものもある。
これが山茶花の咲きようなんだと思う。
散っても掃く必要はなく、このまま朽ちるに任せておくがいい。

足に優しい道

山茶花の名なき墳墓に散るがまま

山茶花の白が好ましい。

もう何日咲き続けているだろうか。
平坦な道ばかり歩いてもつまらないので、墳墓は必ず登るようにしている。何より眺めがいい。

また、足の裏にも優しいのだ。
今日の距離は7キロほどか。吟行をかねての散歩だから時間はかかる。

散りようが命

掃かぬまま山茶花風の運ぶなし

山茶花が咲き始めたようだ。

とくに香りが強いわけでもなく、木もあまり大きくは伸びないせいか、椿に比べれば地味とは言えるが、何と言ってもこの花の特徴は、長い期間にわたって咲いては散ってを繰り返すことにある。同時に、株の根元に散り敷いた花びらさえも愛でることができる。
そういう意味では、散ったからと言ってすぐに掃かないことも肝要で、散り積もるまでしばらく放置しておくのがいい。
強風が吹かないかぎり飛散することもないので、お隣への迷惑もあまり心配ないかもしれない。

花は花として、散った花びらの風情がさらにいい。
二年前に大覚寺の庭で見た山茶花の散り様は、今もあざやかに思い出すことができる。

旧嵯峨御所大覚寺門跡

苔庭の落葉掃くより弾きたる
山茶花の散るを意匠に苔の庭
水鳥の広く遊べる庭湖かな
大池の北はよく溶け枯蓮
枯蓮を撮って白雲映りこむ
名勝の名のみとどめて滝涸るる

想像以上に立派なお寺に圧倒された。

さすが門跡寺院の代表とされるだけの気品があり、短時間に見て歩くにはもったいなさすぎる。また、大沢池の広さはどうだ。さまざまな冬鳥も到来して、留鳥ともどもあまたいるのに、ちっとも狭さを感じさせない。あと千羽くらい飛来したとしても特別多いようには感じないのではないだろうか。

そのうえ、名古曾滝跡脇にある歌碑を見てはたちどころに百人一首55番藤原公任の歌と教えてくれる友もいて、なんともゴージャスな旅だ。

毎年のクラス会

山茶花や恩師不在のクラス会

中学のクラス会に数年ぶりに出席した。

いつもなら十月に行われるのだが今年は山茶花の咲く頃となった。
恩師は御年九十四歳、健在ながらご主人の看護のため今年は欠席された。
先生は決して愚痴をこぼさぬ人だったが、担任のときにさんざん迷惑をおかけするクラスだったので、校長や教頭先生にいつも小言を言われていたんだろうなと言う話で盛り上がる。
すでに鬼籍に入ったもの二名に聞こえるように当時の思い出を語るもの、奥さんを数年前に亡くし本人も原因不明の病気で精密検査を受けるというもの、膝や腰が悪くて座椅子にすわるもの、大病からカムバックしたもの、普段は孫のお守りで忙しく参加できなかったもの、法事で欠席すると言うメッセージを送ってくれたもの、などいろいろな人生、暮らしぶりの披露。
毎年顔ぶれは同じようなメンバーだが、たまに珍しい人が参加してアクセントになったり。

冬の日は短く瞬く間に三時間がすぎて、来年を約しての散会となった。

登山口

信貴参道山茶花やうやう盛りなり

信貴山下駅前の山茶花

隣駅の近鉄信貴山下駅はその名前の通り信貴山へのバスが出ており、奈良県側からの入山起点である。

駅前には立派な町立図書館があり、駅のすぐ裏は町役場など主要な公的機関があって文字通り我が町の中心でもある。その駅前ロータリー広場の山茶花の植え込みが今盛りを迎えている。山茶花というのは東京などでは通常11月から12月にかけて最盛期を迎えるのだが、当地の山茶花は相当遅いようである。
そう言えば我が家の山茶花の鉢もようやく蕾が膨らんできたところだ。寒気にやられるせいか葉の色も褐色がかってややくすんでしまうことが多い。どこの家でも常緑樹は総じてくすんでしまっていて、結果陽気がいいシーズンになっても色つやがもう一つのような気がする。