虫出や久に師の書をひもときぬ
朝、西の空が真っ暗だった。
やがて風がさわぎだしたと思ったらざあーっと雨が落ちてくる。おまけに大きな雷が何度か鳴る。
冷たい空気が上空に侵入してきた、典型的な雷雨だ。
春になって初めての雷、すなわち初雷である。
啓蟄の頃に鳴るから虫出とも呼ばれると歳時記にある。
雷にうながされたわけではないが、昨日今日と書棚を片付けていて、久しぶりに師の声を聞きたくなった。
何冊かあるうちの最晩年の詩集「花花の記 井上由雄病床詩集Ⅱ」を手にとった。そして驚いた。
ご縁の深かった三十、四十代の頃は、詩のなんと難解なことだろうと敬遠していたが、いま手にとってみると何のつっかえもなくすっと水が喉にとおるように体にしみこんでくるのだ。
たとえば、この短い詩、
「経過」
椿 ぽっ
ひとつだけ今日は もう落ちないか
「虫の声」
部屋で 虫が啼きだした
どこでだか
何の虫だか虫が鳴いている
俺は虫だ と
俺にも狂わせろ と
小さな虫にまで、やさしい眼差しをそそいで止まない。いのちへの慈しみである。
書き出しに、
「はじめに
花花である。何の花でもよい。
咲いてくれればよい。庭隅だろうと、道端だろうと咲いてくれれば美しい。
人もまた美しい。花である。花できらいなものはない。」
なんと素晴らしい師に出会えたのであろうか。
若い時には理解できなかった事が年を経てその良さを感じたり共感する事ってありますよね。
ひっそりと目立たなくても命あるものへの慈しみ、これはやはりある程度の歳月が必要かも・・・
最晩年になって、自然や命というものへのまなざしがさらに柔らかく表現されるようになったのかなとも思いました。
ばりばりの頃の詩はこれぞ現代詩という感じで、近寄りがたいものがありました。