ご縁

棚経や墓仕舞などひとくさり

盆法会に菩提寺の老僧にお出でいただいた。

母が亡くなったときのご縁で檀家とさせていただいた縁で、毎年のお盆と節目の忌日にお願いしているお寺である。
住職をご子息に譲られてからは、なかなかお目にかかる機会がなかったのだが、今日はたまたま御大みずからの読経をいただくことができた。
この方は托鉢などによって廃仏毀釈のお寺を三つも再建され、その一つが大神神社の神宮寺で、先師が早くに亡くなられてその遺志をついで再建までこぎつけられた。詳しい縁起は平等寺ホームページをご参考に。
説法と言うよりも、予定時間をかなりオーバーして世間話に花が咲いたが、近年は墓仕舞いの相談を多く受けるようになったとのこと。さもありなんで、私もいずれ世話になるかも知れないと、松籟ご相談させていただきたいとお願いすることとなった。

嫌われ者

ねずみ返しものともせずに葛かづら

葛嵐といっていい天気。

これが秋ならいくぶん涼しいのだろうが、なにせ梅雨明け同然の天気が続くのでかえって暑苦しさがますばかり。
国道を走るとかしこに葛がはびこって、フェンスはもちろん、河原、空き地、いたるところに進出して、秋になる前にこれを刈るのもさぞ大変だろう。
古人は衣服の繊維に、食料に、薬草に、おおいに利用したのだが、現代では嫌われ者のひとつとなってしまった。
人口減による放棄地、空き地が増えるいっぽうで、葛はますます勢いをましいずれ人の手も及ばぬ葛が原が全国のあちこちに広がりそうだ。そうなるとあとは森林化に向けて一直線。五十年、百年先のこの国の風景はまったく異なったものになるにちがいない。

連日の医者巡礼や柚子熟るる

今年は枝にいっぱいつけている。

ジャムにできそうなほど豊作なんだけど、手をつけかねている。
頼みの綱の家人が毎日のようにあちこちの医院詣で、とてもじゃないがそんな暇がないのである。柚子のジャムというのも実に面倒で皮と実は別々に処理しなければならず、おまけに細かい仕事なのである。
僕は柚子絞りの担当になりそうだが、肝心の皮むきのやりかたがよく分からない。おそらく一日仕事になるので、この医者通いが一段落するのを待つしかなさそうである。
先ごろまでまだ青みがいくらか残っていた柚子も、もう十分に黄色になって旬を逃しやしないか気になるところである。

へっぴり腰

脚立にも届かぬ柿の天にあり

毎年生るにまかせる木がある。

いつもなら柿花火を呈してそのまま鳥の餌になるのだが、今年はめずらしく地元の仲間だろうか何人かで柿を落としていた。
斜面にたかくそびえる木に、植木職人などが使う立派な三本脚の脚立にのぼるのだが、馴れてないせいかすこぶる腰つきが危なかしいへっぴり腰である。斜面に手を入れてない柿はすこぶる高木に育っているので、上段に上がっても高鋏でも簡単には届かず難儀しているようである。
それでも帰途通ってみると見事に下半分の実がすっかりなくなっている。相当の量を持ち帰った思われるが、あれは甘柿なのか渋柿なのか。後者だとするとそのあとどうするのか、いささか気になるところである。

遭遇

学童の去にし校庭鶫来る

近づけば視線を背後に置く。

鶫の特性だ。
人間とは一定の距離を保つかのように、近づけばその分遠ざかる。
人が近づけば背中を見せながら、視線だけはこちらに注いでいるようである。
言ってみれば、鶫と人とが「だるまさん転んだ」をしている図である。違うのは追っかけられる方が後方をにらんでいて、追いかける側が近づけばその距離の分だけ逃げるという具合である。
どこかで出遭ったら一度お試しあれ。
秋の季語とは言え、この辺りではいつもなら年があらたまってから、場合によっては冬から春になろうかという頃にみかけることが多いのだが、今年はこんな早くに遭遇するとは思わなかった。北の方で異常がおきているのかな。

覚醒

隠れ里しのばせ雑木紅葉山

この二、三日背後の山が見事な変貌ぶりである。

信貴の山からなだらかに尾根が里につづくが、普段は何の変哲もない雑木の尾根である。これが秋が深まり冬に入る頃には全山がみごとに黄葉し、さまざまな種類の木がそれぞれの色を競うように全体を染め上げあたかも全山が覚醒したかの様となる。
家を出て少し行くと全体が見渡せるコーナーに出るとそれが眼前にばあーっと広がるのである。信貴の天辺から尾根の末端は小学校まで、180度のパノラマである。
尾根の途中には木立に囲まれて麓からは見えないが古くから信貴畑という集落があり、ここは土地の地蔵講の人たちによって毎年勧請縄が掛け替えられてハイキングコースの目玉地でもある。
尾根の中腹にはこれも裾からはうかがい知れない大きな溜池があって古くから平群の田をうるおしている。
見かけは何の特徴もない尾根であるが、隠れ里的な集落を護る尾根でもある。

矜持

捨案山子誰が見んとて見得を切る

とっくに稲刈り、稲架掛けも終わった田に立っている。

妙にリアルっぽい案山子三体がある。
最初のうちこそ色鮮やかな衣装を着ていたが、それも近ごろは色あせが目立ってきてますます貧弱に見えてくる。
田主にしてみれば、目の前にある学校の児童たちに見せたいのであろうが、集団下校で隊列を組んで帰る子供たちには視線さえもらえないでいるのがいよいよ哀れである。
役割を終えたものたちに、引き際という矜持をもたせてやりたいものだ。