水揚げ

挿木して有耶無耶の齢かな

挿し木してみようと思いたった。

かつてやったこともある紫陽花の挿し木である。
挿木は春の季語だが、紫陽花にとっては成長期の今がいいタイミングとなる。
ただ、挿し木には条件があって、負担をかけないため最初は直射日光はだめで半日陰あるいは日陰においておく。二週間もして枯れずにいれば根付いて証拠でまずは成功である。徐々に日を当てて成長を促す。
とくに紫陽花は水揚げが激しいので、これらのことを守らないと失敗する確率が上がる。
一番いいのは雨の日が続くことであるが、そうでなくてもこの日陰で水をたっぷりというのを忘れなければまずは失敗はない。
二三年すれば紫陽花の庭ができあがるのであるが。さてどうなるやら。
「有耶無耶」は「ありやなしや」と読む。またもや「うやむや」とも。
先が分からないというのに笑われそうである。

伸び放題

白詰草編むとはなしに束に摘む

意外にいい香りがする。

やや草っぽいものの、上品な香りである。
これを髪飾り、首飾りに編めば香りが凝縮されてもっと薫り高いものになるにちがいない。
土にいいからとわざわざ庭に撒いたのが、毎年刈っても刈っても増えてくる。
本来は鋤込んで緑肥とするものだけど、そこまでの力作業は怠ってしまう。
だから、今年も元気よく伸びて、白い冠のような花をいっぱいつけている。
もちろん、摘んで編もうなどとは夢には思わない。

枕を高く

靴下を脱いだ足裏に夏近し

浴室の蛇口交換をした。

もう何ヶ月か前からパッキンがゆるんだとみえて、カランからの漏れが止まらない。
カランのちょっとした当たりで微妙に止まることもあるのだが、今度はシャワーのヘッドからも水漏れするようになって、水道事業にたずさわる娘夫婦に相談した。
ご多分にもれず各部品も中国製ばかりで、このコロナ騒ぎで今はまったく入ってこないという話だったが、幸い倉庫に同型の部品が余っていたのをおくってもらうことができた。
まずは靴下を脱いで浴室に入ったが30度近くに気温が上がった今日は跣足が気持ちいい。
ちゃんと水を止めないと大噴出しかねないので慎重にスパナを使ったが、素人なりに何とかユニット交換できておかげで今夜は枕を高くして寝られそうである。

指が余る

憲法記念日六法す全部言へるかな

ろくに条項を読みもしないで改憲語るリーダーの軽さ。

今やることは改憲ではなく、目の前の国民の命を守ること。
無能に万能の武器を持たせてはならない。

ところで、六法全書なるもの。
引っ越しするまではたしかに書架に眠っていた。
六法の筆頭は憲法だけど、その後に何が続くんだっけ?
刑法、民法、商法、、、、えーっと。指が余る。

重複

惜春の没の句稿を捨てにけり

とにかく外へは最小限の用事でしか出かけないので、ひたすら身辺の些末を詠むしかない毎日である。

今日の句であるが、私にとって句帖というのは主に吟行のときに用いるだけなのでここ数ヶ月ページがなかなか進まない。
思いついた句をメモするのはもっぱらスマホのメモアプリで、出句の何倍とある膨大な捨て句が記録されているのだ。
過去の結社投句もすべてスマホにデータ化されていて、たまにはメモデータを整理しないと後から読み返したり検索したりするには邪魔ものでしかない。
なかには、俳句の形をなしていないが種になりうるものがあるのでなかなか踏ん切りがつかないのであるが、ここでもモノ同様もしやもしやで増えるしかないものをバサッと捨てることにした。
こうして整理して気がついたことがある。5月号で採用された句を6月号にも重複投句していたのだ。編集長に言ってもし採られていれば下げてもらうしかない。

八十八夜、夏近し

不織布を敷いて真白き苗代田

八十八夜だそうである。

夏のイメージだけど春の季語。立夏まではほんの数日だ。
調べたけどなぜ「夜」がつくのか、よく分からなかった。
旧暦と新暦を換算することなく、単に立春からの経過日数をいうわけだから分かりやすい雑歴といえるかもしれない。
通常なら五月二日ないし三日のところ、今年は閏なので五月一日になるそうである。なるほど、なるほど。
茶摘みのほかに、田の仕事も忙しくなる時期である。

久しぶりに散歩を兼ねて郵便局へ行ったときのこと。いつも苗代が切られる一角が遠目にも白くて、何だろうかと近づいたら白い不織布で畝を覆っていた。そのうえに鳥除けのテープがキラキラしている。
このあたりの田植は夏至頃だから、こんなに早く種まきをするとは思えないのだが、やっぱり播種を待つているのだろうか。

雑巾にもならない

祝日に国会開き花は葉に

「花は葉に」という季語は比較的新しいそうである。

ホトトギス歳時記にはない。
角川の合本歳時記昭和59年版にもないということだから、平成の季語ということもできるかもしれない。
「葉桜」の傍題として扱われるようだが、「葉桜」は文字通り桜若葉のみずみずしさをいうのに対し、「花は葉に」は誰もが分かるように「うつろい」を詠むものである。
実はとっくに葉桜の季節が来ていて「桜若葉」も色を濃くする季節なのだが、政府のあまりにも緩慢なコロナ対策に業を煮やす思いでこの季語を使ってみた。
このコロナ禍に対するには、連休に入るので政治も休みというわけにはいかない。緊急事態宣言の終了か延期か、医療崩壊をいかに防ぐか、店を閉じなくてはならなかった自営業者、アルバイト口を失った学生やフリーランス、非正規労働の人たち、自己表現の場が失われた文化芸能、アーティストなどの暮らしをどうつなげるのか、新学期になっても学校に通えない児童や生徒たちに授業や指導などにいかに手をさしのべるのか。
小さすぎて雑巾にもならないアベノマスクより、助けてくださいと叫んでる人たちへ、血の通う施策というものを早急に見せてください。お願いします。