開花前夜

骨壺も小さきペットの彼岸寺

命日の猫・ごまちゃんの眠る寺にお参りしてきた。

竹内街道沿いにある動物専用霊園で、東京から連れてきた二匹の猫が眠っている。
おりしも彼岸で、天気もいいからお参りの人も多く、そのなかに愛犬(と思われる)の骸も持ち込まれていた。
霊園には桜の並木もあって、近くで見ると今日の暖かさも手伝ってか蕾がいまにも開きそうなほどに膨らんできている。
たしか品種は染井吉野のはずだが、蕾の色が緑だったのは意外である。萼なのかもしれない。これから進むとそこからさらに紅いものが見えてくると思われる。
行き帰りの道ではすでに開花したもの、いままさに開花しようとするものなど、いよいよ騒がしい花のシーズンインの感を強くした。

身の丈

かたすみにあらそひさけて菫かな

どんどん草が萌えるなかにあって、木の下で半日陰となっている場所は遅れている。

だが、そんなところに菫が固まって咲いていることがある。
わざわざ表通りに出て場所争いに明け暮れるより、身の丈を知ってさっさと自分の居場所をみきわめてしっかり地歩を固めようという意志があるように思えてくる。
おのれの本分をわきまえているというか、したたかに生きる道を知っているというのか。
こんな生き方を苦ともせず、自然に生きて來たなら、意外に人生は心豊かになっただろうなと思うこのごろである。

実在の証は

鳥帰る汀に白き糞の跡

いつのまにか数を減らしている。

鴨たちの半分以上が北へ向かったようだ。
池の周りのあちこちのたまり場は糞で白くなっていたが、それもだんだん薄れてゆくようだ。
寂しくなった池でがあがあと鳴くのは留鳥の軽鴨か。

ひとつの奈良

曇天の馬酔木の房のいや重き

枝がたわんでいる。

びっしりと花をつけた枝がいかにも重そうに垂れているのだ。
あんなに小さくて可憐な花でも、集まればそれ相応の重さになるというわけだ。
奈良の公園はいま馬酔木の白、ピンクに満たされている。

いのちよ

虫出や久に師の書をひもときぬ

朝、西の空が真っ暗だった。

やがて風がさわぎだしたと思ったらざあーっと雨が落ちてくる。おまけに大きな雷が何度か鳴る。
冷たい空気が上空に侵入してきた、典型的な雷雨だ。
春になって初めての雷、すなわち初雷である。
啓蟄の頃に鳴るから虫出とも呼ばれると歳時記にある。
雷にうながされたわけではないが、昨日今日と書棚を片付けていて、久しぶりに師の声を聞きたくなった。
何冊かあるうちの最晩年の詩集「花花の記 井上由雄病床詩集Ⅱ」を手にとった。そして驚いた。
ご縁の深かった三十、四十代の頃は、詩のなんと難解なことだろうと敬遠していたが、いま手にとってみると何のつっかえもなくすっと水が喉にとおるように体にしみこんでくるのだ。

たとえば、この短い詩、

「経過」
椿 ぽっ
ひとつだけ

今日は もう落ちないか

「虫の声」
部屋で 虫が啼きだした
どこでだか
何の虫だか

虫が鳴いている
俺は虫だ と
俺にも狂わせろ と

小さな虫にまで、やさしい眼差しをそそいで止まない。いのちへの慈しみである。

書き出しに、
「はじめに

花花である。何の花でもよい。
咲いてくれればよい。庭隅だろうと、道端だろうと咲いてくれれば美しい。
 人もまた美しい。花である。花できらいなものはない。」

なんと素晴らしい師に出会えたのであろうか。

青鞜

若草山見ゆる広野に遊びけり

平城京の朱雀門周りがすっきりした。

遣唐使船がまたお目見えして、観光客用施設も整ったので、ここをベースにあの広い宮城址を散策するのも悪くない。
すでに空は雲雀のにぎやかさ。足もとには草がどんどん萌えて、顔を東に転じるといまだ末黒の若草山がはっきり見ることができる。
すみずみまで歩けば一万歩くらいはいけそうである。
いつもの馬見丘陵公園とはちがって、ここには特別史跡でボール遊びする不謹慎なグループはさすがにいない。ほとんどが観光客であるし。ひたすら歩くのである。そういう意味では野遊びというより青鞜というべきかもしれない。

水鏡

雨濁る水面に空と山茱萸黄

睡蓮が枯れて池に顔出すものはひとつとてない。

雨後だろうか、池の水が薄濁りして底も見えず、水面に映るのは空と池に張り出した山茱萸の花だけである。
山茱萸が咲き出してすでに三週間ほどになるが、いまでは全体の枝にまで広がって、遠くから見ると枯れ木全体が黄色に煙っているように見える。
その黄色だけが池に映えて、これもまたぼおっと煙っている。