大和の薬売り

草の名をまた習ひけり鳥曇

高取町は昔から薬の町である。

7世紀初め推古天皇がこのあたりで薬狩りを行ったというから、昔から薬草などが豊富な土地だったのだろう。その後も修験者によって「大和売薬」が各地に広がり、江戸時代には置薬として行商が始まったというほど隆盛を誇った。
今でも町には10社あまりの製薬会社があるし、昔ながらの店構えで漢方薬を扱う店があったりする。
何よりも、土佐街道にはゲンノショウコ、ドクダミなどいろいろな薬草の絵を焼いたタイルが10メートルおきくらいに敷設されているので、町に一歩足を踏み入れた途端ここは薬の町だということが知れるのだった。

“大和の薬売り” への6件の返信

  1. 薬売りは富山かと思ってたですが、大和高取の方が本元なんですね。勉強になりました。

    我が家にも薬箱がおいてあって急に熱が出たりするとおふくろが熱さましを出して飲ませてくれました(苦い粉薬を無理やり飲まされたってのが実感ですが)。四角い紙風船なんかおまけについていましたっけね。

    1. 推古天皇の話は宇陀市のこととして有名なんですが、盆地の至る所で薬狩りが行われたということなんでしょう。推古19年(611年)5月5日に行われ、男は鹿狩り(角を採取する)、女が薬草を摘む、これが端午の節句の起源といわれています。

      四角の風船、懐かしいですね。ぽーんぽーんと天井に向かってついたことなどを思い出します。

  2. 高取町の薬狩り、面白いです。記録に残っているのは日本書紀からでも、ほんとうはもっともっと古く、文字のない時代から人は薬草を採って保存していたのかもしれませんね。
     どの時代であれ、お腹や頭が痛くなったりしたでしょうし、怪我も多かったでしょうからねえ。
     ほだかさんも、薬狩りをして、庭の片隅に薬草園をつくるというのはどうですか?

    1. 日本書紀のは役所ごと移ったような大イベントですから、庶民の生活では春になれば野草摘みとして普通のように行われていたんでしょうね。
      蒲生野の紫草はあまりにも有名ですが、あれも薬猟だったんでしょうね。

      前の家では庭中がドクダミだらけになってました(笑)。あれは強いから他の雑草が尻尾を巻いて退散するくらいです。

  3. 高取町はお雛様だけでなく、薬でも有名だったんですか。製薬会社が10社もあるなんてすごいね。7世紀の推古天皇の薬狩り以来の伝統が生きているのかな。
    子供の頃は我が家にも置き薬があり、定期的に薬売りの営業マン(?)が入れ替えにきていましたね。当時はドラッグストアなんてものはなかったしね。
    それから推古19年5月5日の端午の節句の起源の話は初めて知りました。中国から渡ってきた行事だと思っていたのですがね。

    1. 我が家から置き薬が消えてもう随分たちますね。今では救急用程度のものしか置いてません。昔の頓服といって粉の苦い薬などを思い出してます。

      ああ、端午の節句はもちろん元々は中国ですよ。それを真似て宮中行事にしたんですね。これが江戸時代になって庶民にも男の子の行事になったのでしょう。

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 が付いている欄は必須項目です

このサイトはスパムを低減するために Akismet を使っています。コメントデータの処理方法の詳細はこちらをご覧ください