泰国デ戦死と彫られ終戦日
英霊の少年のまま終戦日
墓碑銘は生ける教材終戦日
墓碑銘の一行重き終戦日
墓参してきた。
家人の実家の寺には村の英霊の墓20基あり、同道した子に墓碑を読ませ、戦死した国が広くアジア各国に及んでいたことを教えるいい機会になった。北は「北支」、南は「泰国」とあった。なかには「本州中部方面」とあったが、これは戦病死か。享年19歳から31歳。小さな村から応召し、その多くが若い命を散らせたことになる。家人の父は教職に就いていたことから応召から免れ、かろうじて血を絶やさぬに済んだ。
今日は八月十五日は終戦の日。
地域のお墓を丹念に見ると戦没者とみられる墓碑が結構あります。
見上げるような高さで立派ですがいくら立派でも遺族にとっては無念の死。
亡き父は家族で北支の会社にいて現地召集されたと聞いています。
従って私の戸籍の出生地は中華人民共和国山東省済南市。
先日吟行のあった明日香村の村墓にも、その入り口にたいそう立派な英霊の墓がありました。考えてみれば何百万人も死んだ戦争ですから、全国どこにも英霊の墓が見られるんでしょうね。
北支からよくご無事で帰ってきなすったんですね。
今日はお盆の送り火の日。京都「五山送り火」に、各地の精霊流し。
この時期、月遅れのお盆の営みが各地で行われますね。郷里では7日に迎え13日に送ります。風習、日取りこそ違え、その趣旨は同じ。
久しぶりの御対面に会話も弾んだことでしょう。生前にもう少し詳しく聞いておくべきだったなとの思いもあり、聞いてみましたがこちらがしゃべるほどには、仏さんはおしゃべりになりません。
来年こそ準備をしてもう少し詳しく聞きたいものです。
墓地に行くとき、いつもと違う道をたどったため、新しい発見がありました。
雲出川中流に迷い込んだとき、「木造神社」という標がありましたので、帰ってから調べてみると、北畠一族の木造氏がこのあたりから久居にかけて支配していたとのこと。
南北朝の争いでは北畠であるにもかかわらず足利方について、波瀬城の同じく木造氏から攻められたとか。
一志郡、久居のあたりの歴史も面白そうですね。
ルーツをたどると意外な発見がある。
旧一志郡にもたくさんの城跡がありますね。木造城、木造雅俊の築いた波瀬城を始め北畠の霧山城などなど。
中でも北畠家ゆかりの北畠神社庭園は素晴らしいですね。母はこの神社のおひざ元で育ちました。長じて波瀬城方面へ輿入れしたわけです。二つをつなぐのが矢頭峠。この峠のことは宮尾登美子の「伽羅の香」にも出てきます。役の小角の開いた矢頭にも多くの伝説があります。
なるほど、このあたりは元は伊勢平氏。その後北畠が覇権を握ったわけですね。それにしても、役行者が出てくるなど、歴史はさらに7世紀にまで遡るなんて、すごいところです。