皇子ゆかりの

皇子偲ぶよすがの歌碑に秋惜む

白毫寺は高円山の麓にある。

境内には、その高円山に向かうように万葉歌碑があった。

高円の野辺の秋萩いたづらに咲きか散るらむ見る人なしに 巻2-231

白毫寺はかの天智の志貴皇子別邸跡だという伝承があり、皇子がなくなったとき笠金村が詠んだ歌だとされている。萩をことのほか愛した皇子がいなくなって、高円のあたりに咲く萩を見るだにせつなくなるという歌だが、この歌碑が向いているのはその墓のある春日宮天皇陵(正式には田原西陵)だと札書にある。高円山の後背約3キロほどにある山間の地である。

皇子がなぜ天皇と称されたのか不思議に思ったので調べてみた。

天武系最後の称徳天皇が亡くなって、志貴の第六子白壁王が即位し光仁天皇となった。以降天智系の世が続くわけだが、その光仁が父に春日宮天皇の称号を贈ったからと知った。光仁自身も田原東陵に葬られている。
近年太安万侶の墓が発見されたのは、その両陵の間にある茶畑からである。

そのような歴史に思いを馳せながら高円山を眺めていると、権力争いから距離をおきながらも二品にまで上り詰め、かつ多くの万葉秀歌を生んだ賢明でいて繊細な皇子の波瀾の人生を思わざるを得ないのであった。

と、そんな感興に浸っていたら、歌碑の裏手を訪うものがある。笹子だ。

高円の野辺の変はらぬ笹子かな

白毫寺裏手はそのまま高円山につづく森となっていて、人の手もあまり入ってないように思える雰囲気がある。

“皇子ゆかりの” への2件の返信

  1. お久しぶりです。無事戻ってきました。入院中もずっと拝見してましたがホント句材を求め吟行会に個人的に精力的に動きまわっておられ感心しています。

    志貴皇子ゆかりの寺ですか、それは思うところあるでしょうね。勢力争いの表に立たずに済んだが故の天智系皇位の復活、、分からないものです。白壁王の即位(770年@62才)を見ていると長生きはするもんだなと思います。

    1. 退院おめでとうございます。
      これで安心して好きな運動を楽しめますね。

      先月から今月にかけて句材探しには最適のシーズンです。歳時記を見ても立項が多いですよね。おまけにいい天気が続いているのが幸いして、自分でもわりと好調だなと思ったりして(笑)

      wikiによると同寺では9月15日が志貫親王御忌だとされています。彼は和銅7年(714)に加増のうえ田租全給される初例となったそうです。食封からあがる税金は通常半額支給のところ全額もらうという、「親王」扱いの待遇です。天智系皇子としては破格の扱いで人柄を思わざるを得ませんね。
      秀歌を詠み、長生きして世間渡りも抜け目なくと言ったら語弊あるかも分かりませんが、たいした器量の人ですね。

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