BGM

長電話飽きたるころの笹子かな

冬に入って初めて笹鳴きを聞いた。

実は今年は同じ場所で秋の九月にも聞いているのだ。
老鶯がまだまだ元気なじぶんに笹鳴きとは、それまで聞いたことがないので驚くばかりだった。
さすがに11月も後半に入ると鶯の歌は聞こえないが、入れ替わりに笹鳴の季節となる。この極端な鳴き方の変化は驚くしかないが、彼らにはそれなりの何か意味があるにちがいない。
冬日を受けた野などに笹鳴きを聞けば冬だなあという気分がいやが応にも高まってくる。これが天気がよくて陽だまりにいようものならもう春は近いとさえ思うものだが、さすがにこの季節は小六月の気分を楽しむに十分なBGMと言えるかもしれない。

長くて短い

笹子来て終の栖のらしくなり

第一声を聞いた。

しかも庭でである。
メジロ、ジョウビタキというのはよく来るのだが、鶯が来たのをこの目で見、耳で聞いたのは初めてである。
庭では折しもみぃーちゃんが昼寝をしていたので、もっと見ていたいという思いと早く逃げろという気持ちが交差してハラハラドキドキのしどおしである。
メジロなどは木の枝に止まって地上には滅多に降りてこないので安心して見ていられるが、鶯は地上低くを移動するのが常などでとくに心配となる。
しばらく笹鳴きをしていたが、こちらの気配を察したか、やがて声が聞かれなくなった。おそらく1分以内のごく短い時間だったろうが、それはかなり長く感じられる時間であった。
ちなみに笹鳴、笹子は冬の季語。今年の冬は早いかもしれない。

冬の到来

あすなろの籬づたひの笹子かな

初笹鳴きというのだろうか。

やっと暑い夏が終わったばかりというのに、早々と律儀に鶯が低地に降りてきたようだ。
本格的な冬鳥の季節にはいささか早いこの時期の一番乗りとなった。
古墳と公園の花の広場を隔てる垣根が背の高いヒバで、冬になるといろんな鳥がひそむようにして楽しませてくれる。
垣根の密度が高いので簡単には姿を見つけられないが、少しずつ移動している模様は声の移動で知るしかない。そう、この鳥は簡単には姿をみせてくれない鳥で、たとえ姿を現しても地味な色合いで背景に溶け込むので見分けが難しいのだ。
本物の鶯色とはほとんど灰色と言っていいくらいで、日に当たる角度によってかろうじて緑じみたように見えるだけだ。
来春2月末くらいに初音が聞けるまでしばらくは笹鳴きの季節である。
鶯だって、春の到来が待ち遠しいのに違いない。明日こそ、あしたこそ、と笹鳴くのである。

一足早い冬の到来である、

福音

持山に笹子すみなす旧家かな

このあたりの旧家の前山の紅葉が素晴らしい。

目前に朝に夕に目紅葉山を独り占めして眺められるのだから、最高のぜいたくというものだろう。
今日は町内の坂をぶらり散歩していたら、笹子がその前山の藪を渉っていた。当然屋敷の人たちも毎日その声を間近に聞いているにちがいない。
まさに風流を絵に描いたような暮らしだが、そんなものとは縁遠い暮らしのものには、たまに横を通らせてもらいちょっとだけ耳を喜ばせることがささやかな福音である。

藪の忍者

呼び止めてやがて追ひ越す笹子かな

笹鳴きがするので思わず振り向いた。

通り過ぎたばかりの小籔にいるらしい。かすかに葉が揺れて、その部分が次々と移っている。谷渡りよろしく例によって移動中のようだ。
やがて笹鳴きも途絶えたので歩き始めたら、今度はずっと前方から笹鳴きが聞こえてくる。
ちょっとしたすきの油断をついて先回りされたようだ。
藪の達人、忍者のようだ。

愛される神社

神降(かみたち)の山懐の笹子かな

拝殿のすぐ裏に笹子がやってきた。

神の留守とはいえ、拝殿につながる社務所には脱いだ靴がたくさん並んでいる。どうやら企業の安全祈願のために集まった人たちらしい。制服を着た人たちが、拝殿のなかで神妙に畏まって神主を待っているところに、ひと鳴きふた鳴きほどしてどこかへ行ってしまった。神主の祝詞の前の露払いみたいなものだろうか。地域全体が神さびている葛城では、生きているものすべてが何やら神の使いのような不思議な気持ちにさせられる。
一言さんは、願いは一言だけ聞いてくれるということで知られるが、境内には子授けにご利益があり、乳がよく出るという神木の乳銀杏もあってか、遠くからの若い夫婦や地元のカップルが目立つ。山の中腹の小さな神社だが、地元の人たちから大切に見守られている様子が見てとれた。

昨日今日と冬の季語が続く。暦でも立冬は間もなくだ。

皇子ゆかりの

皇子偲ぶよすがの歌碑に秋惜む

白毫寺は高円山の麓にある。

境内には、その高円山に向かうように万葉歌碑があった。

高円の野辺の秋萩いたづらに咲きか散るらむ見る人なしに 巻2-231

白毫寺はかの天智の志貴皇子別邸跡だという伝承があり、皇子がなくなったとき笠金村が詠んだ歌だとされている。萩をことのほか愛した皇子がいなくなって、高円のあたりに咲く萩を見るだにせつなくなるという歌だが、この歌碑が向いているのはその墓のある春日宮天皇陵(正式には田原西陵)だと札書にある。高円山の後背約3キロほどにある山間の地である。

皇子がなぜ天皇と称されたのか不思議に思ったので調べてみた。

天武系最後の称徳天皇が亡くなって、志貴の第六子白壁王が即位し光仁天皇となった。以降天智系の世が続くわけだが、その光仁が父に春日宮天皇の称号を贈ったからと知った。光仁自身も田原東陵に葬られている。
近年太安万侶の墓が発見されたのは、その両陵の間にある茶畑からである。

そのような歴史に思いを馳せながら高円山を眺めていると、権力争いから距離をおきながらも二品にまで上り詰め、かつ多くの万葉秀歌を生んだ賢明でいて繊細な皇子の波瀾の人生を思わざるを得ないのであった。

と、そんな感興に浸っていたら、歌碑の裏手を訪うものがある。笹子だ。

高円の野辺の変はらぬ笹子かな

白毫寺裏手はそのまま高円山につづく森となっていて、人の手もあまり入ってないように思える雰囲気がある。