団欒

手花火のつきて背後を見上げけり

楽しい時間はあっという間に終わる。

それを生まれて最初に知るのは手花火であろうか。
花火を買ってあるのを知っていると、子は夜になるのも待ちきれないほど早く早くとせかす。
いざ始めれば、大量に買ってあるわけでもなく、たいていは一包み程度だから子供が多ければ多いほど早く終わる。
あとは火薬の匂いと煙がたちこめるなかを大人が火の始末してしまうと、子供たちはやっとあきらめる。
そんな昭和のささやかな遊び、家族団らんがなつかしい。

起承転結

手花火の爆ぜて燭の火消えにけり
頑是なき子に手花火を持たせみる
手花火の手に姉の手の添へられて

いつの頃からだろうか。

線香花火がちっとも面白くなくなった。
というのも、燃焼している時間が昔に比べて極端に短くなっていること。と同時に変化にも乏しくなっていること。
線香花火は、燃焼過程でいろいろな変化があってこそ楽しい。初めに「牡丹」といわれる玉を形成しワクワク感が高まる過程、そして「松葉」と激しく火花を散らしてハラハラする過程、それがおさまると「柳」といって長く糸を引いたような過程を経て、最後は「散り菊」でパッパッと火花を散らしながら火の玉になって名残を惜しむ時間をはさみ、玉が落ちてその余韻に浸る。
こうした「起承転結」に富んだ花火の変化があるからこそ、一本一本が点火されていくたびその時間自体がいとしく、もっともっと続いてほしい、まだ終わらないでほしいという気持ちでせつなくなるのだ。
何とも味気なくなった理由は、いつのまにか外国製の安いのにとって変わられたからだという。
手作りで手間がかかる国産花火は価格で太刀打ちできなくなって、国産の線香花火は数パーセントしかないと聞く。
国産のものを手に入れようにも、そこらのスーパーやホームセンターなどでは見つからず、それこそネットで検索しないと手に入らない。
たとえ一本が百円、数百円しようが、本物の線香花火をもう一度かざしてみたいものだ。