勧進縄わたす欅の若葉せる
今日は久しぶりの「鎮守の森を観にいこうかい」。
桜井駅から一気に談山神社までバスで登り、多武峰から安倍文殊院まで降りてくるコース。
それも普通の人はあまり利用しないような、むしろ杣道と言っていいくらいワイルドな道を降りるコースで、足元ばかり見るようではあるが、ところどころガイド役の方の説明もあって多少救われる下り道である。
そこは植生も豊かで、とても覚えられそうもないほどの草花や樹木がある。里の春の花は終わったが、どうしてどうして山にはまだ花がいっぱい。
卯の花をたどり勧進縄の村
数多くの古墳群があるという高家(たいえ)地区を過ぎ、卯の花、定家葛に導かれるようにして辿り着いた集落の入り口には勧進縄が渡されていた。その一方を支えるのが大きな欅の木で、折しもの若葉が明るい陽を照り返している。
勧進縄というのは一般的に雄縄、雌縄の一対があるのでもう一つあるはずだと探してみたが、とうとう見つからずじまいで集落を抜けてしまったのが心残りとなった。ということは、邪気の入り込むのはあの卯の花の道からだというのだろうか。
締めくくりは、幕末から明治中頃にかけて膨大な日記を残した高瀬道常という人の古文書と、それを原稿用紙2,400枚に転記して世に知らしめた研究者の講釈を聞くことができた。日記とはいっても、個人的日記ではなく世界情勢を含めた広い学識に裏付けられた貴重な「当時の世相についての記録」であるのが特徴だ。当時物価が高騰したり、木綿などの価格が輸入品に太刀打ちできなったりして不景気になったのは、外国に門戸を開放した幕府のせいで、桜田門外の変すら溜飲をさげる数え歌に織り込まれていたこと、また逆に異人打ち払いの長州がいかに期待されていたのかという庶民の側から見た記述などとても興味深いものだった。
このように知的好奇心も満たされ、かなりきつい行程もいくらか緩和されるのであったが、後半に相当きていた足の明日は、はたしていかなるものだろうか。いささか気になる日曜夜である。