旬の紫

車止め半身で抜けて夏薊

薊が今鮮やかだ。

一面西洋カラシナの河原も、すっかり夏に模様替え中。
そのなかで、紫がいちだんと濃くなってきた薊に目がとまる。
人と自転車しか通らない土手なので、まわりを気にせず目をあちこちやっては散歩を楽しめる。
夏薊だから花期は長いのだが、やはり旬は初夏である。まわりが緑を濃くしてゆく中でひときわの鮮やかさを愛でたい。

現世の花

みささぎの常世と隔て夏あざみ

結界のこちら現世夏あざみ

宮内庁管轄の陵墓は立ち入りが厳しく制限されている。

神功皇后陵前の薊

周囲は厳重な柵が設けられているのだが、神功皇后陵ではその結界に沿って咲いている夏薊の朱紫が鮮やかに目に映った。薊には罪はないけど、まるで現世のあだ花でもあるように。

実は、この句はある句からヒントをいただいたものだ。
当日一番に詠みたかった光景なのに、「結界」という言葉が思い出せなくて時間内にどうしても詠めなかったのだ。ところが披講、選句となって、

結界の外に一輪夏薊

を見て眼から鱗の思いで第一に選句させてもらった。そう、キーワードは「結界」だったのだ。神聖な領域のすぐ外に鮮やかな夏薊。現世のはかなさ。単にそれだけを言うために。

この句から類想の「常世」が生まれたというわけだ。