見てきたような嘘をつき

月見草蛹どこぞで皮脱ぐか

見たことがあるかと問われても答えられない。

見たことがあるかもわからないし、やっぱり見たことがないかもしれない。
今では珍しい花となっているようだし、だいいち夕から夜にかけて開くというごく地味な花だから、見逃していてもおかしくはないだろう。草花に気を向けるようになったのは、俳句をやり始めてからであり、それでさえ日が浅いのだ。
私にとって、月見草ときいて反応できるのは、大宰、野村元監督くらいである。ふたつとも、大きなもの、立派なもの、派手やかなものにたいするささやかな存在として描かれているが、実はそれぞれ再起を期す決意、おのれの矜持を秘めているように思える。
月見草は、同じく夜に開く待宵草と混用されているが、生命力にあふれる待宵草に対して、本家の月見草は栽培も大変難しいようで、苗を求めようにもまずは見つからない。
したがって、習作は取り合わせという形式に頼らざるを得ないが、どんなものだろうか。