足りる

大槻の一樹で足りる紅葉狩

欅紅葉の色が一層濃くなってきた。

野山がすっかり黄葉、紅葉してくると、たった一日ですっかり様相を変えてしまうほど移ろいは速く、毎日同じコースを歩いていてもまったく飽きることがないほどだ。
そのなかでも欅というのは大樹に育つ木であり、これが単独で丘などに聳えていると、姿形の申し分ない姿といい遠目にも堂々として見えて心奪われるものがある。紅葉を楽しみに外出して、たまたまそのとき、その木にとって最高のコンディションに巡り会うことができると、もうその一本見ただけで今日の目的を果たしてしまったような深い満足感のなかにひたることができる。
暦では秋だが、紅葉シーズンはこれからとあって各地から紅葉情報が届くが、見慣れた欅大樹の一本で十分心満たされることもある。

山見ては木には及ばず紅葉狩

一目千本とは吉野の桜を見渡せることあるいは場所を言うが、他にも名乗るところもあるようだ。

まるで何々銀座というようなものだが、それでは全山もみぢというようなスケールの大きい場合は何というのだろうか。
考えてみれば桜もまさにそうだが、紅葉の景色を楽しんでいるとき、一木一枝こまかに観察し、それを手にとって愛でているかと言えばそうではなさそうだ。全体の紅葉のなかでも微妙に異なる色彩のあやに声を上げているのではあるまいか。
考えてみれば紅葉狩りとは妙なネーミングだ。葡萄狩り、林檎狩りのように現物を折り取って持ち帰るわけでもない。
語源はどうやら平安貴族が紅葉を求めて野山に出かけたことにあるという。太古から、野山に薬草や染め物の原料にあたる草木を狩り、あるいは鹿や猪を狩ってきた。そんな延長線上に紅葉の名所を訪れ宴を楽しむ紅葉狩りがあったのだ。宴の遊びを野外に求めていくことを広く「狩」と称してきたわけだ。
現代は紅葉の名所まで車でさっと行ける時代。酒宴を張ることなどとんと無縁な紅葉狩りの時代となった。
また、桜泥棒なる言葉はあるが紅葉泥棒とは聞かない。いくら酔っても紅葉の枝などゆめゆめ持ち帰ってはいけない。