ジーパンに着替へ宮司の花衣

倉橋には宮内庁が定めた崇峻天皇陵があるのだが、それはありえないと解説員さんが言う。
実際の墓はさらに忍阪へぬける「倉橋ため池」をまわった先の天王山古墳で99%間違いないらしい。50メートル四方くらいの方墳で、旧古墳の上に築いたものだ。何しろ尾根のあちこちが古墳という土地柄なのである。古墳の上の古墳もあれば、古墳の上の神社もあるのだ。
この古墳は、宮内庁の管轄には入ってないのでだれでも玄室に入れる状態である。天皇陵で直に玄室には入れるところはあまたある陵のなかでもここだけだと言うので、写真の通りごくせまい入り口だが勇気を出して潜ってみることにした。中は天井が4メートルほどあって圧迫感がなく、しかも意外に広いので参加メンバー50名ほどがすっぽり入ってもまだ余裕がある。
倉橋でガイドの役目を終えられた等彌神社の宮司さんも昼食後は一般参加者に混じって参加されることになった。ここでは最初は「ここはお墓やから。。。」と言っておられたが、暗い玄室に入ってみるといつの間にかみんなと一緒に説明を聞いておられるのを懐中電灯の灯りの中に発見したときには大いにおかしかった。
ちなみに崇峻天皇は592年蘇我馬子に殺された天皇として知られているが、こぼれ話として聞いたのは、身の危険を感じた崇峻天皇の皇子・蜂子皇子が出羽に逃れ、庄内平野を干拓し出羽三山を開いたとされている。皇子は当地の下居神社の下社を出羽に鎮座し大和をしのばれたということだ。そんなご縁でいまも出羽との交流は続いている。