夜目遠目

たそ雑踏に花衣待たするは

町内会の総会終わって反省会という名の懇親会。

一年間の役員を終えた面々の晴れ晴れした表情が印象的である。
ときに本当の反省もあって、延々つづくこと6時間。
帰路についたときはもう夕闇が迫ろうとしていた。
そのとき、角を曲がってくる麗人がいる。これが夜目にも美しく、まるでパーティから帰ってきたような明るい色調の衣装をまとっている。近づいてよく見れば、花見から戻ったばかりという同班の某ご婦人である。実年齢よりは10歳以上も若く見えようか、その場にいた面々もみな感嘆符!
そう言えば、今年の花見も今日が最後。大勢の人が名所へ押しかけたことだろう。

古墳探検

ジーパンに着替へ宮司の花衣

天王山古墳の探検

倉橋には宮内庁が定めた崇峻天皇陵があるのだが、それはありえないと解説員さんが言う。

実際の墓はさらに忍阪へぬける「倉橋ため池」をまわった先の天王山古墳で99%間違いないらしい。50メートル四方くらいの方墳で、旧古墳の上に築いたものだ。何しろ尾根のあちこちが古墳という土地柄なのである。古墳の上の古墳もあれば、古墳の上の神社もあるのだ。
この古墳は、宮内庁の管轄には入ってないのでだれでも玄室に入れる状態である。天皇陵で直に玄室には入れるところはあまたある陵のなかでもここだけだと言うので、写真の通りごくせまい入り口だが勇気を出して潜ってみることにした。中は天井が4メートルほどあって圧迫感がなく、しかも意外に広いので参加メンバー50名ほどがすっぽり入ってもまだ余裕がある。

倉橋でガイドの役目を終えられた等彌神社の宮司さんも昼食後は一般参加者に混じって参加されることになった。ここでは最初は「ここはお墓やから。。。」と言っておられたが、暗い玄室に入ってみるといつの間にかみんなと一緒に説明を聞いておられるのを懐中電灯の灯りの中に発見したときには大いにおかしかった。

ちなみに崇峻天皇は592年蘇我馬子に殺された天皇として知られているが、こぼれ話として聞いたのは、身の危険を感じた崇峻天皇の皇子・蜂子皇子が出羽に逃れ、庄内平野を干拓し出羽三山を開いたとされている。皇子は当地の下居神社の下社を出羽に鎮座し大和をしのばれたということだ。そんなご縁でいまも出羽との交流は続いている。

花の都の花衣

花衣異国の言葉を交わし居り

昨日に続いて今日の季題も「花衣」。

今日は今を盛りの桜を求めて京都を訪ねた。
円山公園から清水寺に向けて、二年坂から三年坂、そして舞台に近づくにつれやたら和装の人たちが目立つ。
最初は「桜に似合いの花衣」と喜んでいたが、どこかが、なにかが違う。
そう、顔つきで日本人かとばかり思っていたのに、半分くらいの人たちがアジア系の言葉を話しているのだ。
どうやらどこかで観光客相手に貸衣装商売をしてるらしい。
なかには、完璧に欧米人とおぼしき大柄で体格の立派な女性を見かけたが、丈もサイズも問題なく用意されてるとみえ、あの長い坂をぐいぐいと登っていくのには圧倒されてしまった。

白川の辰巳橋から。このあとアオサギが目の前に着水し、人目も気にせず堂々と足下の橋をくぐっていきました。

同族の絆

祭文字染め抜く法被の花衣

地域の役員だろうか、揃いの法被を着た一団が花見の宴たけなわである。

あちらでは野球チームのユニフォームグループだ。
同じグループに属する人間同士にとって、こういうハレの席ではとくに親近感が強まるものらしい。
結構、おおいに結構。
普段のしかめ面も忘れておおいに盛り上がるがいい。