筒井筒

肩過ぐる丈にひとむら薄生ゆ

今日も在原神社の話。

この神社の「ひとむら薄」とは謡曲「井筒」の地謡、

名ばかりハ
在原寺の跡古りて 在原寺の跡古りて
松も老いたる塚の草
これこそそれよ亡き跡の
一叢ずゝきの穂に出づるハ
いつの名殘なるらん
草茫々として露深々と古塚乃
まことなるかないにしへの
跡なつかしき氣色かな 跡なつかしき氣色かな

に謡われる「一叢ずすき」からとられたもので、業平の魂があらわれたものだと解釈されるが、いっぽうでこの節からは相当以前からこの寺が荒れていたことが想像できる。

実際今植えられている薄は背が高く、まるで葦にまがえるほどだが、正真正銘薄でこの時期ようよう穂を出しはじめていた。
句意は全くの言葉遊びで、

筒井筒井筒にかけしまろが丈過ぎにけらしな妹見ざるまに
くらべこし振り分け髪も肩過ぎぬ君ならずしてたれか上ぐべき

をもじったにすぎないのであるが。

“筒井筒” への2件の返信

  1. 私も伊勢物語ではこの筒井筒の所が大好きです。源氏物語で筒井筒は夕霧と雲居雁ですがこの二人の話も気に入っています。ただ伊勢物語も高安の女が出て来るし源氏物語でも落葉の君が出てくる。なかなか筒井筒のままではすまないのが男女の仲というもんなんでしょうね。

    1. 謡曲「筒井筒」は伊勢物語の延長として、女が死後もずっと弔うというところが泣かせます。能というのは俳句みたいなところがあって、話のいろいろを捨て去ってエッセンスみたいなものだけを取り上げるので、生臭くないのがいいと思いました。

      ところで、業平が天理から法隆寺前を過ぎ竜田、生駒越えで高安に通った道は「業平道」として残っていますが、例の「ちはやぶる」の竜田川はその業平道のものが候補地のひとつだとされています。能因法師の「みもろのやま」も家からはほんとに近いところです。

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