僧形が行を終える日春装ひ
本当はお水取り、お松明を見物に行くつもりだった。
早く市内に着いたので例の大仏パンを買ったあと、いわゆる「ならまち」歩き。
おおよそ奈良町というのは、かつて興福寺と並んで栄えた元興寺の元境内にあたり、15世紀に火事で焼けて以来民衆が住みついた町である。広い、広い。
その広いエリアのところどころに往時の元興寺を偲ばせる建物などが点在するわけだが、往時高さ50メートルを超え興福寺の五重塔さえしのぐ塔があったとされる区画が、今では礎石だけを残してその周りを住宅に囲まれているのはいかにも肩身がせまそうである。
塔跡の大きな桜もまだ蕾が固く、ようやく顔を出した土筆だけがわびしい気持ちを和ませてくれた。
そろそろコーヒーでも飲んで一休みしようかという矢先雨が降ってきて寒くなるわで、お松明が始まるまであと3時間の過ごしようがなく日をあらためて出直しとなった。
今日はいわゆるフォト俳句風に仕上げてみた。
「つかず離れず」、難しいものである。
まだまだ寒い雨が降って春とは言い難いですね。今日もまだ風が寒いです。
「ならまち」歩き、いいですね。羨ましいです。
この前、白洲正子の歴史紀行文(「道」)を読んでたら鎌倉古道が出てきて、神奈川県~町田市にかけて、「大和」「奈良」「三輪」といった地名があるが、これは大和・奈良方面から移住してきた人がこの辺りに多く住み、それでつけられたものだろうと書いてあった。
ほだかさんの「奈良暮らしから」にある「奈良北」団地というのが正にそこなんでしょうね。奈良に結ばれてたってことでしょうか。。
今日は昼頃いっとき雪が舞いました。
明日くらいまでは寒さがぶりかえしのようです。
なるほど、言われてみれば大和からきた人々だったというのも頷けますね。
横浜市緑区の北の外れに「子供の国」がありますが、その辺り一帯が奈良町、その奈良町の山を越えて小田急鶴川駅方面に向かうあたりが町田市三輪です。
その昔、大磯の辺りに上陸し、相模平野の秦野から武蔵の高麗あたりまで半島の人々が進出したということです。そんな混沌としていた時代から、律令制度が整い中央集権国家が成立した頃には相当の人が東国と関わっていたでしょうね。
あ、また雪が舞ってきました。
12日梅の写真は間を縫っての撮影です。今日はめまぐるしく天気が変わる寒い日です。
そうか、秦野・高麗の謂れはそういうことなんですね。
おっしゃる通り奈良~平安の時には既に関東・東北まで広く網目が張り巡らされていたんですね。大したもんです。
大磯の山は高麗山というくらいだし。
最も華やかな天平時代、全国に国分寺建立の詔が発されてますしね。そのころ本格的な中央集権国家が成り立ったといえるでしょう。