春泥の人にさしのぶ腕かな
何もかも舗装されてしまった。
都会ではまず春泥というものは見つからない。
それでも、ちょっと田園地帯に入ればたしかに泥道というのは残っているものだ。
そんなところを二人連れで歩くということも滅多にないはずで、ほとんどが独り。いや、子供たちならばちょっと冒険にやってくることもあるだろうか。
掲句は、どこかで経験したか、見たか、あるいは春泥ではないただの道悪の状況だったか、いずれにしても残像としての映像である。
泥だらけで帰ってきて、ズックの靴がひどいことになっていたりもした。その場で洗えばいいのだが、ほおっておくと、一晩で靴の裾が固まってしまって、始末が悪かったものだ。
今も、吟行などで靴を汚して帰ることもある。車の中も汚れる。昔ほど気にはしなくなったが。
泥のイメージとして浮かぶのは沼田、泥水、水たまり、泥団子等々。
すべてが自身や子どもたちが幼いころの思い出につながる。
決して悪いイメージではなく田舎育ちの私には泥は懐かしい言葉である。
泥んこになって遊んだ昔にはもう戻れない。
ヘドロや汚泥とは全くもって異質のものである。
南アジアから伝わったという稲作は泥のたまものですもんね。水のないところには米は作れないし、日本は各地に稲作に適した土地があって、そこにも豊かな自然を形成しています。何と言っても原点の風景です。