老いに添う

春泥を避ける分別いつよりぞ

年寄りの冷や水という言葉がある。

歳がらにもなく無理をして体を痛めたりすること。「それ、みたことか」と笑われるおちがついた慣用句である。
水たまりやらぬかるみがあれば、若い頃ならば一気に跳んでみせたり、あるいは少々足を取られても突っ切ってゆくことも怖れなかったが、さすがに今はもう無理だ。
降参、降参とばかり回り道をゆくか、引き返すか。
そんな分別というか、弁えというものをいつの間にか身につけて、これを悲しむか、諾うか。
だんだん心も老いに添うてきたように思うこのごろである。

平底

春泥のからびて青き細腓

菜種梅雨の季節となって気温も上がらず寒い日が戻ってきた。

玄関がたちまち汚れる。
ちびたつっかけで庭をうろつくたび足裏が枯草と泥にまみれる。下駄とか、長靴のような深い溝があるならこうもならないだろうが、いちいち履き替えるのも面倒で。
用を済ませてすぐに戻っても同じことだった。

ジリ貧

春泥を跳びて郵便届きけり

週休二日の時代というのに土曜日でも律儀に郵便が届く。

検討はされているのだろうが、そろそろ土曜日の郵便配達をやめたらどうだろう。
即日配達を売りにした宅配サービスもあるというが、法人の飛脚サービスならともかく、日用品の類いまでを対象としていったい人間の欲というものにはきりがない。
なくても困らないような安いサービスがどんどんふえ、従事するひとは低賃金にあえぐ。
ジリ貧経済の底が見えない。

道行き

春泥の人にさしのぶ腕かな

何もかも舗装されてしまった。

都会ではまず春泥というものは見つからない。
それでも、ちょっと田園地帯に入ればたしかに泥道というのは残っているものだ。
そんなところを二人連れで歩くということも滅多にないはずで、ほとんどが独り。いや、子供たちならばちょっと冒険にやってくることもあるだろうか。
掲句は、どこかで経験したか、見たか、あるいは春泥ではないただの道悪の状況だったか、いずれにしても残像としての映像である。

泥だらけで帰ってきて、ズックの靴がひどいことになっていたりもした。その場で洗えばいいのだが、ほおっておくと、一晩で靴の裾が固まってしまって、始末が悪かったものだ。
今も、吟行などで靴を汚して帰ることもある。車の中も汚れる。昔ほど気にはしなくなったが。

ひんしゅくもの

春泥の靴で都心に帰りたる

泥をつけたまま客先に上がるなど言語道断。

さらに、泥靴でバスなど乗れば同乗客の顰蹙を買うこと間違いない。
一般社会のエチケット、マナーの世界では、人と会ったりお宅に伺う前には泥は拭わねばならないことになっている。
泥は忌むべきものなのである。

ところが、俳句の世界ではこの泥がいいと言うのだから分からないものだ。
単なるぬかるみではなく、雪解けや霜解けなど春先独特のぬかるみを総称して「春泥」と呼び、珍重するのである。

掲句は、終日田舎道を歩いたあげく、泥を拭いもせず疲れ切った体でバスに乗り、電車に乗り、地下鉄に乗って帰ってきたのである。道中、多くのさげすみの視線にさらされたのは言うまでもないだろう。

奈良を愛した歌人

春泥や見つけし歌碑の黒御影

奈良には奈良を深く愛した会津八一の歌碑が多い。

秋篠寺を南門から入ってすぐ左の林の中にもその歌碑はあった。

秋篠のみ寺を出でてかえり見る生駒ヶ岳に日は落ちんとす

よく磨き込まれた黒御影には本人揮毫による全ひらがなの達筆が刻まれている。

耕春

春泥や野良着干したる軒端かな

家の辺りはちょっと足を延ばすと田や畑が広がっている。

農道を歩いていたら作業小屋を見つけた。
農機具や作物の洗ったもののほか、軒下にはタオルや作業着などが干されていた。