畦道に予感違わず蛇の這ふ
幅1メートルに満たない畦道をたどって河原に降りるとき、左右の田から今にも蛇が出てくるのではないかと思った。
実際に河原からの戻りに、縞蛇の若いのが畦道をわたっているのに遭遇した。
子供の頃の田舎というのは大抵はこんなものだったように思う。
今日は天気も上々なので飛鳥へ行くこととした。
目的地は「飛鳥川の石橋(いわばし)」(「飛鳥川の飛び石」ともいう)。
明日香川 明日も渡らむ 石橋の 遠き心は 思ほえむかも・・・・・作者不詳 巻11-2701
石舞台から栢の森方面、芋峠経由吉野へ抜ける道を行くと、風情ある棚田で知られる稲淵の集落に至る。
この集落の半ばあたりで飛鳥川に降りると「飛び石」がある。
冒頭の写真がそうだが、大水でも出ようものならたちまち流されてしまうような石橋だ。これが隠妻のもとに通うために作者がわたったあえかな証なのだが、こんな谷間にある何の変哲もない石橋を見ていると無性に古代へのロマンを誘われる。
同じ集落には、随・唐に渡り帰ってからは鎌足などに先進の学問・儒教を教えたとされる南淵請安の墓がある。
社の裏に小さな祠がありそこが南淵請安の墓だった。
なお、犬養孝の「万葉の旅(上)」明日香川(p86)の項前後がこのあたりのことについて触れている。
石舞台を過ぎるあたりから明日香川はさらに狭く深くさらに急流となってゆく。今も玉藻が生っているとしても少しもおかしくないくらいきれいな流れである。
上の写真、わが故郷にもあるような風景です。
このような飛び石を見ると、先ずはぴょんぴょんと渡ってみたい衝動に駆られます。
万葉人はこの飛び石を渡って妻の元に通ったそう、なんてロマンチックなんでしょう!!
今も玉藻の清流が見られるのでしょうか?
子どもの頃、近所のガキ大将が青大将を振り回して意地悪をするのです。
今は良いお爺さんですが・・・
この石橋は以前から訪問したかった万葉一番のポイントでした。
「心の原風景 万葉を行く」(米田勝著 奈良新聞社)も私の教科書で奈良に来て初めてかった書物でもあるんですが、その巻頭グラビアが郷愁をさそってやみません。
清流は狭くて必ずしも全てが見えるわけではないのですが、どこかに玉藻がゆらいでいたとしても不思議はないと思います。
いいところ巡っていますね。
この写真の石橋気に入りました。それとこの歌、素朴でストレートで何とも言えない。恋をするってことはこういうことなんだろうと思います。向こうでは明日もこの私を待っててくれるんだろう、、何としても行かねばならないって純情ですよね。
玉藻と言えばやはり「玉藻の前」を思い起こします。折しも丁度今芭蕉が黒羽滞在中で玉藻の前のtころを訪問してます。(テキストp57)
今日のドラマの保元の乱に続いていくことになる女性でもあります。
この玉藻の前と崇徳天皇が日本三大妖怪に数えられてるのも面白い。。
言外に「心は石橋のようには離れていないよ」という。素朴な歌ながらストレートに訴えかける力をもっていますね。
太古から怨霊、祟りがたいへん恐れられたようです。よく知られたものでは道真公がありますね。玉藻の前の霊を鎮めた話はありませんが、9本の尻尾を持つ狐というのはまさに異様で、なんでこんな話が生まれたのか不思議です。
お待たせしました。
三日間の三重滞在中にやっと黒羽迄追いつきました。
偶然にも明日香川の玉藻と重なり、えっと思いましたが語釈を詳しく読めば水中の藻と女性の名前の違い。
語釈の助けを借りてなんとか読み進めています
それにしても素敵な名前(玉藻)で絶世の美女らしいのに妖怪とは、言い伝えにしてもちょっと可哀そう。
この女性のモデルが美福門院ならば保元の乱に続くのは納得のいくところですね。
殺生石にも関連しているらしいので、そのまま続けて白河の関の手前まで読み続けました。
6月までしばらく間がありますので巻末の解説でも読んでおくことにしましょう。
飛鳥川を詠んだ万葉歌は24あると言われています。万葉の川では一番多く詠まれているそうです。明日香村の飛鳥川そのものを指したり、故郷の象徴としての川だったり、川では一番人気なのもうなづけます。
日本人の故郷ともいえる川に生いる藻、それが玉というのですからただ美しいだけでなく、心の玉手箱のように愛しく思われるのでしょう。
それが妖怪の名だというのはギャップが大きすぎますね(笑)