川の主

石垣の目地に巳の字の青大将

護岸の目地を縫いながら青大将が登ってゆく。

登り切ったら動かなくなって植え込みにひそんでいる。四メートルの壁を登るのに疲れたか。
この川はしっかり防護壁で固められているが、その石の隙にひそむ鼠などを目当てにテリトリーとしているようで、川を泳ぐ姿を何回か目撃している。
コンクリートブロックを組むには、たいがいが交互に組み合わせながら積んでゆくので、青大将が目地にしたがって這い上れば自然に「巳」の字を描く格好になる。愉快な絵だが、二メートル近くもあるような大将クラスではいかにも気味が悪い。

玉藻ゆれる

畦道に予感違わず蛇の這ふ

幅1メートルに満たない畦道をたどって河原に降りるとき、左右の田から今にも蛇が出てくるのではないかと思った。
実際に河原からの戻りに、縞蛇の若いのが畦道をわたっているのに遭遇した。
子供の頃の田舎というのは大抵はこんなものだったように思う。

今日は天気も上々なので飛鳥へ行くこととした。
目的地は「飛鳥川の石橋(いわばし)」(「飛鳥川の飛び石」ともいう)。

明日香川 明日も渡らむ 石橋の 遠き心は 思ほえむかも・・・・・作者不詳 巻11-2701

石舞台から栢の森方面、芋峠経由吉野へ抜ける道を行くと、風情ある棚田で知られる稲淵の集落に至る。
この集落の半ばあたりで飛鳥川に降りると「飛び石」がある。
冒頭の写真がそうだが、大水でも出ようものならたちまち流されてしまうような石橋だ。これが隠妻のもとに通うために作者がわたったあえかな証なのだが、こんな谷間にある何の変哲もない石橋を見ていると無性に古代へのロマンを誘われる。

同じ集落には、随・唐に渡り帰ってからは鎌足などに先進の学問・儒教を教えたとされる南淵請安の墓がある。

社の裏に小さな祠がありそこが南淵請安の墓だった。

なお、犬養孝の「万葉の旅(上)」明日香川(p86)の項前後がこのあたりのことについて触れている。

明日香川 瀬々の玉藻の うちなびく 情(こころ)は妹に 寄りにけるかも・・・・・作者不詳 巻13-3267 苑池遺跡のあたり。奥に見えるのが多武峰の山。

石舞台を過ぎるあたりから明日香川はさらに狭く深くさらに急流となってゆく。今も玉藻が生っているとしても少しもおかしくないくらいきれいな流れである。