尋めて来し長谷の牡丹の裏切らず(とめてこしはせのぼたんのうらぎらず)牡丹のいづれ秀ととも言ひがたく(ぼうたんのいづれほとともいいがたく)一年を五ヶ日のために牡丹守
参道まで牡丹溢るる長谷の山
参道の鉢にも酔ひて牡丹寺
ようやく牡丹を句にすることができた。
花そのものを詠むというのはもともと苦手だが、やはり半日吟行に行ったのだから何とかものにしたいものだし、見たもの感じたものというのは一体何だったのか、一旦自分を突き放して思い起こしてみると見えてくるものがあるのではないか。そんなことから家に帰ってからも思考を巡らせてみて思ったことは、「たとえ即興で成らずとも、時間をかけて自分の言葉を探り当てる努力を惜しまないことが成句につながる」という、当たり前のことなんだが、意外に忘れがちなことでもある。
ところで、このように作句してみると、あれこれの思いを五七五におさめ発散させるには、やはり文語体に限ると思う。古典をもっと学ばねば。
五月の風に誘われて遊び歩いていて、しばらく机に向かっておりませんでした。
長谷寺吟行よかったですね。
牡丹の句、それぞれにいいですね。
文語体というよりむしろ俳句独特の読み方があるようで、それが難しいと思います。
5、7、5 にしようと省略した読み方など特有のものが俳句に入りずらくしているように感じます。
俳句とはそういうもので、それを学び身につけなさいと言われればそれまでですがね・・・
古語を学び、正しい活用を学ぶ。
ただ、おっしゃるように俳句には自ずと使われる語が限られているようなので、先達の句をいくつも読む。
そんなところでしょうか、最初はね。
そのうち自分の言葉を吐き出せるようになり、自分らしい世界を表現できるようになる。そんなことを考えながら日々精進。とにかく他人の句に学ぶのが一番の近道だと。
一人でやってると、独りよがりだったり、主観が強くなりすぎて共感できない、などの弊害が避けられません。句会に出ていつも思うことです。
ご苦労の程が偲ばれます。やはり物事には真剣に取り組まねばと思います。
英語重視なんぞよりも国語教育を考えることの方が大事だといつも思っています。
考える力、それを正しく伝える力という意味で、やはり算数とか国語は基本ですよね。
「力の弱いものは銃を持つことが許される」なんて発想はどこから生じるんでしょうか。
牡丹に想いを寄せいとおしむ気持ちがよく現われていると思います。
古語、文語を思いのままに繰れればどんない素晴らしいでしょう。
それどころか口語の使い方もままなら身、悲しいです。
今朝久しぶりにカワセミの様子を観に行きました。
時すでに遅し、あれだけ構えてたカメラマンの人影もなく閑散としていました。
無事雛が孵って飛び立ったのでしょうね。
雛祭りは後の祭りでした。
残念!!また次の機会を待ちましょう・・・
「たり」「けり」「かな」。こんな切れ字を使う以上、口語体とのミックスってどう考えても不自然ですしね。ひたすら、多くの句に触れる。俳句独特の言い回しになれるしかないですね。
カワセミは多いときは年に3,4回は産卵します。まだ、2,3回のチャンスはありますから、諦めることはないです。