大阪平野はむかし海だった

日暮しの鳴きそむ雨の昏さかな

今日はめずらしく終日の雨。

気温が上がらないのはありがたいが、湿度が高いのはかなわない。台風12号の余波の雨らしい。
明日もまだその影響があるらしいと聞いてさすがに気が重くなった。
そこで、句材探しに大阪府の「近つ飛鳥博物館」へ行くことにした。ちょうど今「大阪平野はむかし海だった」特別展が開かれていることもある。これによると、今の大阪平野はつい3千年前の縄文時代までは海だったそうだ。その後海水面が下がるとともに土砂の流入もあって淡水湖となり、ついには今の陸地へとわずか千年、2千年の間に大きく変化した。
難波宮はその大阪湾に突きだした半島の先端にあったらしいことを知った。多くの渡来人たちが湾の周囲に住み着き、漁をし、塩を作り、牧を育てたことも。やがて渡来人たちは二上を越え大和にも進出したことも。
大阪湾(茅渟の海)は当時最先端の文明が上陸した土地なのだ。

見学し終わって外へ出たら、雨はまだ降っていたが、古墳群の谷によく響くヒグラシの声があった。
今日の句はわりに気に入ってます。

“大阪平野はむかし海だった” への6件の返信

  1. そういうことですか。大阪はやはり水の都のイメージですもんね。
    大阪府にそんな博物館あるのですね。大阪にはもっともっと文化発信してもらいたいものです。

    1. 博物館がある一帯はおびただしい古墳群があるところです。ちょっと海のほうへ向かうと仁徳陵に代表される百舌鳥野古墳群もあります。そんところからこの博物館のメイン、常設展示物は、古墳時代のものが集中しています。
      お時間があれば、付近の地理も頭に入れてお出でになるといいかもしれません。
      河内源氏三代の墓や西行さんの墓も近くにあると言いますので、機会を見て訪ねてみようと思ってます。

  2. 大阪平野は1000~2000年前、海ですか。自然に陸地になっていったのですねえ。
    関東は江戸時代に埋め立てがはじまって、人工的に陸地を造成し続けて今に至っていますが・・
    大阪の人工的な埋め立てはいつごろからでしょうか。
    今日、住吉大社のことを少し調べていたら、朱塗りのそり橋のところまで波が打ち寄せていたとありました。
    源氏物語の「須磨」「明石」などの帖で住吉は重要ですが、平安時代は社のすぐそばが海だったのですね。
    海上交通の要で船から降りてすぐに参拝できる立地条件だったのですね。

    1. 信長と石山本願寺との攻防は有名ですが、石山本願寺は今の大阪城がある上町台地にあって当時周りは湿地帯という要害でした。今年の大河ドラマでも夜陰にまぎれて舟で物資を運び込むシーンがありましたね。
      住吉神社にゆかりの神功皇后の子が応神ですが続く系統の古墳も、台地の延長上にある堺市付近にあります。初期の王権はやはり難波を中心としていたのでしょう。考察してみれば面白い話がいろいろありそうです。
      大阪の海岸部分の埋め立ての歴史は大阪湾開発物語に簡単にまとめられているので参考してください。

  3. 大阪には港の機能しかなく文化の中心は奈良にあったのは大阪に陸地が少なく大和川が水運の役割を果たしていた。京都の都も淀川が水運を賄い都を守る托割もしていたのだろう。現世に生きる我々にはうかがい知ることが出来ない。中国の都も今見れば山奥とも思える西安も揚子江で繋がっている。日本も中国の都の作り方から学んでいたのだろう。何故と思える事柄が決して不思議ではない。1970年代でも大阪平野は蓮根畑が多く、湿地帯の面影を残していた。狭い日本列島と思ってるが多くの事を学ぶ必要があると思えます。

    1. 地政学的な観点から歴史を振り返るとまったく別の光景が見えてきて興味尽きないものがありますね。
      今でこそ大和川は奈良から大阪へひと流れでつながっていますが、かつては県境の亀の瀬と言うところで舟を乗り換えていたと聞いてます。隘路にはちがいないのですが言わば瀧のような大きな段差があったとか。
      そこで積み替えられて荷が海石榴市まで底の浅い舟で運ばれました。都までの輸入品が舟運で支えられていたようです。

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