守り

南天の花を鬼門の平屋かな

今はもうぽろぽろこぼれる頃。

米粒ほどの花だが、散った花弁はさらに小さく軽いので風に吹かれては道端にまでひろがってゆく。
放っておいてもすぐ朽ちるのでそのままでもいいのだが、やはり箒をかけておくのが住宅地のマナーというものだ。
わが家でも花が散った先に芽を出したのがいて、そいつを鉢に移し替えたら株は幼いながらも今年は花をつけた。
小さいながらも家を守ってくれているようである。

宅配

ピザ届く家の南天咲きにけり

米粒ほどの蕾が開き始めた。

日曜日の団欒を過ごそうというのか、宅配のピザを頼む家がある。
玄関アプローチの南天の花をこぼしながら配達員が玄関に立つ。

自宅葬

南天の花にふれたる喪章かな

家人が不在の間に、蕾であった南天の萼はおおかた散ってしまって黄色い雄しべ雌しべだけになった。

散った花片はあまりにも小さくて軽いせいか、勢いよく掃くと四方に飛び散ってしまうので丁寧にゆっくりと箒を使う。それでも、全部ちり取りに掬うのはできなくて、残ったのはタイルの目地などに張り付くなどしている。
往々にして人目につかないところに植えられていることが多くて日の目を見ることは少ないし、先ほども言ったように小さくて地味な花だから、面と向かってもなかなか句を授かることはできないで苦しんでいたが、逆にその狭さからヒントを得たのが掲句である。

故人宅での葬儀は今では珍しくなった。かつて、庭先から焼香したあと、狭い軒下を通って玄関脇に順路が設けられているのに何回か遭遇したことがある。その順路に南天を配してみるとこんなこともあるかなというシーンだ。
たいていは、家と境界の距離というのは1メートルくらいなので、木や花に触れないで通り抜けるのは難しい。まして、雨ともなったら花より高く掲げたりしなければならない。だが雨の場面として、花と傘のふれあいを詠むのはあまりにも月並みすぎる。ここは、さりげなく腕に巻いた喪章に狂言回しを務めてもらうこととした。
作りすぎの感なきにしもあらずだが。

順調

掃いてまた南天の花散りしまく
南天の疲れを知らず花散らす

毎日のように南天の花が散りつもる。

ごく小さなかわいい花びらだし、汚れてでもない限り掃かずにそのまま散っているさまを楽しめばいいけれども、玄関先でもあるので毎朝掃くのが日課となる。
いっぽうの本体の南天はと見れば、花弁は散ったものの今年は多くの黄色い蕊が残っていたりする。これが実を結びやがて晩秋には赤く熟れてくると思われ、今年は南天の当たり年になるかもしれない。

先ほどからまた雨が降ってきた。当季の梅雨は今のところ降ったり止んだりの陰性模様。いかにも順調な梅雨らしくていいが、そうなると遅めに植えた胡瓜苗の生育が気になってくる。

再訪を

青春のきっぷ行き過ぐ花南天

18歳の目に果たして南天の花が止まるだろうか。

桜井の聖林寺は国宝・十一面観音立像で知られているが、意外に知られてないのは南天のお寺であることだ。あちこちに南天が植えられていて、晩秋には紅葉とともに真っ赤に染まった境内を楽しむことができる。聖林寺に行くなら絶対に晩秋がお奬めである。

先日キヨノリ君ご夫妻と一緒に観音さんを拝して同寺を辞すとき高校生の団体と行き交った。こんな小さな寺にもスケジュールを割いて東京から修学旅行生がやってくることにも驚いたが、同時にこの寺をコースに組み込んだ関係者の見識もまた好ましかった。
ただ、こんな小さな寺で一度にたくさんの生徒がゆっくり拝観することは大変で、おまけに夕方に近い時刻だったので、おそらく国宝を見るだけで終了してしまったにちがいない。
卒業したらぜひもう一度ゆっくり訪れてもらいたいものだと思う。

今は地味な南天の花の季節、青春真っ只中の若人に気づいてもらえるだろうか。

米粒のような

南天の花揺るるともなく散りぬ

花は白かった。

南天の花だ。正確には花ではなく苞なのだが。若木、というより苗といったほうがいいかもしれないが、を玄関先に植えたものが背丈70センチにまで成長し、今年はじめて花をつけたのだ。花(実際は苞)は白いけど実は紅くなるはずだ。このままうまくいくと、この冬にはあの鮮やかな色の実が見られるかもしれないと思えば、今から楽しみである。
幹の先端に「花序」という枝をのぼし、それらの小枝には小さな米粒のような形をした苞がいっぱいについている。やがて苞が割けて黄色い花を見せるのだが、そのころには苞が南天の細かい葉にいっぱい散ってさらに賑やかになる。