恨み

掃苔の出鼻をくぢく長雨かな

盆が過ぎても晴れは見込めなさそうである。

一週間予報をながめては溜息。
今日など気温が低かったからいいものの、盆明け頃から真夏日が戻る予報があたればうっとおしい日から逃げられない。
せっかくの夏休みというのに、子どもたちからも恨まれそうである。

精気を奪う

掃苔の客の跡なる花萎び

兄妹揃って参ることはまれである。

父母ともに故郷にいなくなると、離れて暮らしている兄弟は、いろいろ都合があって墓参の日取りを合わせられない。しぜんに、個別に参ることが慣わしになっている。
たいていは墓に近い妹夫婦が先に参ってくれているようで、いつもお参りするときにはきちんとお花を供えてくれてある。秋とは言え残暑は厳しく、水は湯のようにもなって花から精気を奪うのだろう。痛んだものを取り除き、新しい供花を足すわけだが、熱い墓石にかけた水はたちまち乾いて、つくづく石の中の仏は辛かろうとつい声をかけてしまう。

墓を守る

掃苔の英霊六基従兄弟なる

朝から二カ所の墓参りを済ませてきた。

一つは実家の墓、もう一つは家人の実家の墓である。
家人の実家の墓に参ると、必ず線香を手向ける墓六基がある。
みな、先の大戦で若い命を散らせた義父の弟とその従兄弟たちの墓である。外地での戦死だからもちろん遺骨はなく紙だけが帰ってきたのだろう。それらの墓碑銘はいまだにくっきりと読むことができるが、どれもみな昭和20年の月日のものばかりである。とりわけ、心を打つのは終戦のわずか十日前に泰国で戦死したという文字。あと半年、あと十日生きていれば違った人生を歩めたものをという思いが頭をよぎる。
その従兄弟たちの墓には今年はまだ誰も訪れた形跡がなく、もしかしたら墓を守るひとたちの高齢化か、あるいは家系が途絶えつつあるのかもしれない。

「墓守をする人が絶える」。これは少子化がもたらす現実の問題としてそれぞれの身に降りかかってくる。
自分の墓をどうするのか。そろそろ考えなければならない時期に来ている。