追熟

焼藷の蜜のからみ来親指に

今日は紅あづまの焼藷を堪能。

最近人気の紅はるかの甘さには劣るがホクホク感はやっぱり紅あづまの勝ちかと思われる。そのバランスがいいのだ。今年は二系統の藷を育ててみたが、それぞれの良さがあって来年も二種とも植えることになろう。
例によって指が火傷しそうなくらい熱いのをもてあそぶだけで指が蜜でべたつく。それだけ糖分が増してきたと言うことだろう。やはり収穫後一か月ほどおいて追熟させた方がはるかに甘くなることを実感した一日であった。

冬の連想

焼藷を分けて職場の三時かな
焼藷の差し入れありて茶を淹れる
紅さつま一本焼いて足る暮らし

郡部に住んでいるせいだろうか、石焼き釜の車をとんと見かけない。

小さな煙突から木を燃やして上がるあのかぐわしい煙りは、市街地内であればまだ健在なのだろうか。
こんなことを考えたのは、車を走らせていて落葉がうずたかく積んだ道を見たからである。落葉を見ると焚き火、焚き火は焼藷という連想がたちまち頭の中を駆け巡り、無性に食べたくなる。

自宅で塵はおろか庭の葉っぱすら燃やしてはいけなくなって久しい。子供たちが小さい頃は落ち葉を拾ってきては藷を放り込んだりする遊びもできたが、今となってみると落葉をみたら条件反射的に焚き火、焼藷を思い出す世代の最後なのかもしれない。

焼藷は屋台か店で買うしか手に入れる方法がない時代というのはさびしい。しかも、値段が高くなったものだ。