鑑真の故郷の名花

一ㇳ筆の右往左往の蜷の道
秒速のミリにとどかず蜷の道
その歩みおほどかなりし蜷の道
来し方のかばかり著し蜷の道
その先へまだ伸びてをり蜷の道
蜷の道殻のわずかに震へつつ
先頭のわずかに震へ蜷の道
踏み固めらるることなく蜷の道
幾山を越えるにあらず蜷の道
塗り替へてまた塗り替へて蜷の道
朝にはまた新らしき蜷の道
道の上にそのまた上に蜷の道
へしあひて消し合ひ勝り蜷の道

今月の吟行句会は西の京。

近鉄西の京駅で降りるとさっそく紅萩に迎えられ、右に薬師寺に向かうグループ、左へ唐招提寺グループとめいめい好きなロケーションを選ぶ。
薬師寺を訪れた回数に比べ圧倒的に少ない唐招提寺に向かうことにした。緑も深く涼しかろうという下心もあったのだが、目論見はみごとにあたり、国宝の青葉若葉の盧舎那仏、十一面の千手観音さまに手を合わせたのち三々五々境内に散る。

句材は至る所にあり、掲句の田螺もその一つ。同じ池にはカワニナも点々としているし泥鰌もくねる。はっきりとそれと分かる杜若もあれば、花菖蒲、黄菖蒲、。。。。鑑真御廟の前庭の苔の花、池には牛蛙が鳴き、和上の故郷・揚州から送られた名花「瓊花(けいか)」の青葉。一歩お堂に入れば薫風が駆け抜け涼しいこと限りなし。

例によって出来は今一歩。時間をかけて醸成できればよしとしよう。

磐余の池跡にたつ

どの筋も三寸ばかり蜷の道

昨年だったか、磐余の池の堤防跡ではないかという遺構が発見され話題になった。

池の堤防跡
道路整備に際して調査が行われ、写真右の森から左の住宅地にかけて堰堤があったことが分かったという。周りを見てみると多武峰から緩やかな傾斜をみせながら盆地に向かって降りてきており、どれもが堤防になりうるような感じで、その昔あちこちに用水池があったとしても全然不思議でない地形をしている。
随行の纒向学研究センターの主任さんの話でも、「磐余の池」というのはいくつかの池を総称して言ったのではないかという説を披露されていた。たしかに、このあたりの地名の池之内とか池尻とかに池に因む名が残っているので「磐余の池」はここらあたりにあったのは間違いないのだろう。

謀反の疑いがかけられた大津が飛鳥京から訳語田(おさだ)、今で言う現在の近鉄・大福駅近くの戒重という字のあたり、の自宅まで護送されたとされる、その経路としてこの池のそばを通りかかったのは間違いないだろう。その日のうちに死を賜っているが、この池の名が詠み込まれている辞世の歌はあまりにも有名だ。一方で、妃の山辺皇女は半狂乱となって裸足で髪振り乱し皇子を追い自死したという話が伝わっているが、その皇女にとっては途中の景色などは全く目に入らなかったにちがいない。

いつの頃か池は埋められ昔から田として利用されたきたと思われるが、現代は無農薬農業を目指しているのかどうか、田植えをまつばかりという田には皆一様に10センチほどの、幾筋もの田螺の這った跡がある。いったい最後に田螺を見たのはいつのことだったのだろうか、あまりに遠くて思い出すことができなかった。