歳暮ともつかず手打の蕎麦贈る
習い始めたという蕎麦が届いた。
テレビなどで素人が挑戦する場面を見ると、最後の刻む段になってたいがいが太さもまちまちの、見た目からしてうまそうには見えないことが多いが、たまにコメントをくれるH君の場合はちがった。
これは性格がなせる技かもしれないが、まるで器械ででも刻んだように細く曲がりのない見事なできなのである。
学生時代以来の友人だが、そんな細かなことが得意とは意外で、話を更に聞くと公民館の料理教室に通っていて今は蕎麦打ちコースに挑戦中なのである。
結婚式に招かれたときも、いつの間に洗礼を受けたのか、聖徒として教会で神妙な顔つきで誓いの言葉を述べていたのにも驚かされたが、彼にはこうしてときどき驚かされることがある。
学生時代、ポン友であったり、一緒に悪行の数々をなしてきた同期から見てもそれはそれは意外な変貌に映るのである。
お孫さんの誕生でご夫人が長い間留守をしていても、自分の飯くらいちゃんと作れるというのだから、かつての悪友からすれば到底及ばぬ高みに到達したと感服するしかないのである。
蕎麦打ち名人に近き希有なご友人がいらっしゃるようですね。
こういう人って性格もあるけど概ね料理なども難なくこなせるのでしょうね。
我が連れ合いなど単身赴任の経験もなく茶碗ひとつ洗ったこともなく50年以上も暮らしています。
ただ買い物は好きなようで週二、三度しか行かない私に比べ毎日スーパー通いです。
男の食材揃はあまり経済観念がなく最近の値上がりには少し敏感になってきてちゃんと値段を調べて買い物ができるようになってきたみたいです。
それでも時々とんでもないものを買ったりして文句を言いたくなります。
男の買い物は古今経済観念が働かないものらしいです。自分が料理するわけでもないのに、メニューのイメージもないのに珍しいものを籠に入れたり。かつては一緒に買い物に行ってよく叱られたものです。
車が必須のスーパーですが、今ではまず買い物につきあいません。猫当番として必要なものだけのコーナーに寄るだけで、あとはひたすら待つのみ。