マドンナの歳月深し木の葉髪
かつてマドンナと言われていたその人を見て誰もが声を飲んだ。
皆が若くて、誰にも輝かしい未来が待っていた頃の、多くの男子の憧れの的だった彼女とは似ても似つかない、とても同一人物とは思えない変わり様に驚いたからだ。
たとえ絶世の美女であっても年齢とともに容色は衰えるのが世の習いとは言うものの、そのギャップが大きすぎる。歳月に加え、過ごしてこられた環境などにも厳しいものがあったのかもしれない。
来し方の話題はつとめて避け、当たり障りのない話題に終始したものの、かえって距離感が広がるものを感じてしまった。
兼題「木の葉髪」の習作である。
木の葉髪
冬の抜け毛を落葉にたとえていうとありました。
と言っても男性のバーコード型の髪には使わないのでしょうね。
やはりマドンナだからこそ、そのギャップが大きいのでしょう。
例をみるとバーコード状態のものもありのようです。
これを哀愁として詠むか、肯定して詠むか、見方によっていろいろな句ができそうです。
う~ん、そんな季語もあるのですか。ちょっと残酷ですね。
美しく老いてる人を見ると気持ちも安らぐのですが。。
必ずしも悲観的な用法でなくても、意に介さず堂々としている様子にも用いられる季題ですので、幅広い内容が詠めると思います。掲句は、「無惨」な様子を口には出さないでおいたということを詠みたかったのですが。
若い時美貌で有名だった女優なんかも年とるとなんか哀れですね。主役級だとよけいにね。
美貌が売りでなく脇役でいい味出してる人なんか良いなと感じますね。長くいろいろな役が演じられ、観ていてこれぞ役者冥利だと思います。若い時から老け役やっている人なんて、老いても心配なしですよね。
自然のままで老いを受け止め、それを楽しむゆとりをもって生きていきたいものです。
「老残」という言葉がありますね。妙に生々しい言葉です。
見栄えではなく精神のありようで痛々しい人が増えているような気がしますが、反面教師として戒めたいと思います。