水船の古りて神水澄めりけり
もっとも近い八幡さんへ参ると、いかにも古い水船がある。
刻印はかすれてよく読めないが、解説によると貞享2年(1685年)のものらしい。
いまでも現役で使われていて、水道水を落として使われている。
ここは宮座十人衆によって祭祀が執り行われているが、水の透明度からみて、毎日誰かがお詣りしているのは間違いない。
小さな本殿、神饌所、絵馬殿からなる小規模な八幡さんだが、寄進の玉垣などをみると近在の家々の名が多い。間もなく龍田大社の例大祭の日に合わせて近隣の神社からそれぞれ太鼓台が繰り出されるが、ここからも子供御輿とともに参加する。私らの新興宅地に越してきたものにはお声が掛からないが、住宅街に接した在の家を巡って曳いてゆくのは、太鼓の音の移動によってよく分かる。
さすがは奈良ですね。
それに比べ我が学区には伝統的な行事は何一つありません。
神社仏閣、お祭りに敬老会等々一切ありません。
しがらみに捉われずさっぱりしているといえば言えなくもない。
今日は今週いっぱいで閉館される名古屋ボストン美術館の最終展を観た。
20年間様々な展覧会を楽しませてくれた身近な美術館の閉館は惜しまれる。
モネ・ルノアールの印象派、ミレー、レンブラント、ゴーギャン等々数えきれなく通い詰めた。
圧巻は「平治物語絵巻」もう一度観てみたい作品である。
近くの美術館閉館というのは、どういう事情があるにせよ愛着をもって利用していた人には淋しいかぎりだと思います。
豊かな時間を共有した空間が失せるわけですからね。
当地でも、話は違いますが、関係者には寝耳の水の高校廃校・移転の発表があって、まるで沖縄に対する現政権のようなやり口が地方行政にまで影を落としているような気がしてなりません。
生徒減という現実は避けられないものの、自分たちの学校が廃されて、校舎はそのままで奈良随一の高校が引っ越してくるというのですから、卒業生、現役生にとってそれはとても納得できることではないでしょう。それでも県は強引に進める構えです。
せめて名前だけでも併存させるような配慮があればよかったのですが。
ひとりひとりの気持ちに寄り添うような行政であってほしいと願わずにいられません。