感覚的

水澄むやワイヤと板の橋揺れて

「水澄む」という季語は実に感覚的である。

秋は殊の外水が澄むから生まれたとされるが、本当だろうか。秋は空気が澄むことが多いからうまれた連想に過ぎないのではないか。この題が出されるたび、いつもこのことを感じる。
水が澄んでいるところは普通年がら年中澄んでいるものであり、そうでなければ雪解けや雨で流れ込む川や池、湖などは晴れ続きで濁ってないという意味しかもたないはずである。現に我が町を流れる大和川など、上流からプラスチックゴミなどが流れ込み、とても澄んでいるという気分には遠いものである。
生まれたばかりの水が滴る源流、伏流水が長い雌伏をへて地上に顔を出した湧水、水が生まれてまだ人の手も人工的なものにも毒されてない流れなど、これらはまがいもなく澄んだ水であり、しかも一年を通して変わらない澄みようである。
花鳥諷詠という虚子を中心とする季題の本意中心に詠む方法では、こういう感覚的な季題を詠むのは得意ではない。無理にこだわると、先に述べたようないつも澄んでいて美しい景色しか描けない限定した使い方に陥りやすくなる。そんな句はとてもつまらないものに映り、ちっとも上手いとは思えない。
だから、勇気を出して感覚的に詠めばいいと思うのである。

身を包むもの

峪穿つたぎりの水の澄みまさる

爽やかを通り越して寒いくらいの夜である。

乾いた空気がさらに空の青さを引き立てる。身も心も澄むような心地で周りのものを見れば、どれもまた爽やかに感じるし、いまにも沸騰しそうだった田の水もすずやかに見えてくるのが不思議である。
秋は心も、空気も、水も身を包むものすべてが澄んでくる。

変わらぬ流れ

飛鳥川七瀬の淀の水澄める
飛石を洗ふ水澄む飛鳥川

今日は35度近い日を飛鳥吟行。

10月とは思えぬ暑さに石舞台に向かったものの、涼を求めて飛鳥川沿いを歩く。
玉藻橋を渡ろうとしたときのことだ。橋の下を猛スピードでくぐり抜ける鳥がいる。水面すれすれに飛ぶところを見るとあれは間違いなくカワセミだ。しばらく姿を探すが、あっという間の出来事で見失ってしまった。
あきらめて足もとの川をのぞくとちょうどそこは飛鳥川本流に支流が合流するポイントで、瀬音が涼やかで気持ちいい。祝戸方面へさかのぼり、稲淵宮跡へたどりついたところで引き返すことにした。

「七瀬の淀」というのは万葉集巻7ー1366の、
明日香川七瀬の淀に住む鳥も心あれこそ波立てざらめ
を拝借したものだが、大友旅人の巻5-860にも、
松浦川七瀬の淀は淀むとも我れは淀まず君をし待たむ
見られ、「瀬があまたあって淀んでいるところ」という意味だろうか。
落差の大きい飛鳥の谷を大きな石をかいくぐるように水が落ちてゆくわけだが、祝戸あたりからややゆるい流れに変わりあちこちに淀みを作っているあたりは、昔とたいして変わらない光景なのだと思えた。

気分上々

平群谷割れて水澄む眼下かな

平群谷を通るたびに句が生まれる。

掲句もその一つ。
同じ電車に乗っても詠める路線とそうじゃない路線があり、近鉄生駒線は前者のひとつ。
それだけ窓の外に自然があるということだ。断層が作ったと思われる深い渓谷が生駒市と平群町の境目あたりにあってちょっとした渓谷美を見せている。それが窓の下にのぞく時間はほんの瞬間だが、秋がいちばん風情がある。今は水に目が向くが、やがてはそれにかかるいろとりどりの紅葉に目が留まる。
月末で稿提出が迫っているが、いくつか寄与しそうである。

今日は結社誌の発送日。読者よりちょっと早くだけ内容を知ることができますが、久しぶりの雑詠五点で気分は上々。

秋祭りシーズン

水船の古りて神水澄めりけり

もっとも近い八幡さんへ参ると、いかにも古い水船がある。

刻印はかすれてよく読めないが、解説によると貞享2年(1685年)のものらしい。
いまでも現役で使われていて、水道水を落として使われている。
ここは宮座十人衆によって祭祀が執り行われているが、水の透明度からみて、毎日誰かがお詣りしているのは間違いない。
小さな本殿、神饌所、絵馬殿からなる小規模な八幡さんだが、寄進の玉垣などをみると近在の家々の名が多い。間もなく龍田大社の例大祭の日に合わせて近隣の神社からそれぞれ太鼓台が繰り出されるが、ここからも子供御輿とともに参加する。私らの新興宅地に越してきたものにはお声が掛からないが、住宅街に接した在の家を巡って曳いてゆくのは、太鼓の音の移動によってよく分かる。

クールジャパン

水澄むや熊野を落とす筏衆

熊野川上流の北山川を流す観光筏が人気らしい。

全長30メートルに及ぶ筏が激流をうねるように下ってゆく。
客は転落防止の手すりにつかまり立ちのまま、飛沫を浴びるまま1時間ほどのスリルを楽しむ。
従兄弟の子が町から帰ってきて筏の仕事についていると聞いているが、こんな熊野の山奥にも外国人が訪ねてくれたり、探せばどこにも魅力を掘りだせるものだ。
IRかなんだか知らないが、日本人に馴染みのうすい博打リゾートを作って何のクールジャパン、日本再発見、再発掘になろう。

罔象女神

みよしのの岩まで碧く水澄める
水神にすは雷神の来意かな

盆地と違って東吉野は涼しかった。

なにより、高見川に代表される川のそばの爽やかさには救われた。
とくに、今回初めて丹生川上神社(中社)まで足を伸ばしたことは大成功だった。
この神社は古代の離宮跡に創建されていて、近くには雄略天皇にまつわる伝説の名をもつ集落もあって、大変古い歴史をもつことに驚く。
祭神は「罔象女神(みづはのめのかみ)」で、いわゆる水神である。天武のときに社として起こしたのが始まりで水を扱う業者、電力会社、製氷会社、氷菓会社などの信徳が篤い。宮のすぐ前を水量豊富な丹生川が流れており、いかにも神域にふさわしい場所である。「丹生」とは水銀が産する場所を示すが、上社、下社もあって果たしてここがそうだったのかどうか、白州正子あるいは司馬遼太郎の著作でも読めば分かるかもしれない。

二句目は作ったような句だが、実際に神社を散策していると雷さまがとどろき、いまにも雨が降ってくるのではないかと思わせる雲行きになってきたのを詠んでみたもの。さいわい数回谷に響いただけでどこかへ行ってくれたのだが。