露けしや礎石ごろりと伽藍跡
ようやく探し当てた頃にまた雨が降り出した。
平城京の南にあった本薬師寺跡が今ホテイアオイの見頃だというので行ってみた。
金堂跡や東塔跡だけが周囲より高く残されていて、まわりはすべて水田。その水田も耕作調整せざるを得なかったところにホテイアオイを移植したものが、今や30万株ほどまでになったという。東側から西方に畝傍山が見えていかにも藤原京跡だということを実感する。
薬師寺は天武が皇后・鵜野讃良の病気平癒のために発願した寺で、工事は天武の死後持統が引き継いで最終的には文武2年に完成。平城京に移されてからも、伽藍は残されていたと言われる。通常、旧蹟というのは長い年月の間に土に埋もれてしまうもので、だから「発掘」によって遺構調査が行われるが、この寺は逆に今では礎石だけになり、しかもそれが根元から露わになってしまっている。それが折からの雨に光っている姿は単に濡れているを越して大いに哀れを誘うのであった。
今週また、飛鳥の苑池の遺構とされる発掘調査結果が公表された。多分、この日曜日には一般公開されるだろうから渋滞を覚悟して見学しなければなるまい。
藤原宮、平城宮跡は今や広大な草原と化しているのでしょうか。
だからこそ発掘調査で実態を明らかにすることができ貴重な空間なのかもしれません。
遷都を繰り返すたびその跡地は過去の栄光があるだけに空しく哀れを誘う。
飛ぶ鳥の明日香の里を置きて去なば君があたりは見えずかあらむ(万葉集卷1-78)
藤原京は平城京跡ほど広大ではないですが、少しずつ発掘作業が進んでいるようです。
元薬師寺跡は周りを田や住宅が囲み、大極殿からも離れているので、このようなホテイアオイの群生がなければ人が訪れるのもまれではないでしょうか。
「飛ぶ鳥の」の歌は、飛鳥浄御原宮から藤原京へ、あるいは藤原京から平城京へ遷都したときのものだとされてますね。額田が「三輪山をしかも隠すか雲だにも心あらなむ隠さふべしや」と詠んだのは飛鳥京から近江への遷都のとき詠まれたとされています。いずれも、去る都への挨拶歌みたいなものでしょうね。
写真があると様子がよく分かります。手前が蓮で向う側がホテイアオイでしょうか。すごい群生ですね。
先日橿原博物館へ行ったとき案内してくれた人が「とにかくどこを掘っても何か出て来るので少しづつやるようにしてるんです」みたいなことを言っていました。古代史フアンにはじれったいかもしれません。
今週は飛鳥浄御原宮苑池跡(国賓のもてなしの施設)の入り口部分の発掘調査結果が発表されました。明日雨らしいですが言質説明会に行ってきます。例の甘樫丘から見下ろした田圃です。今は公開しては埋め戻していますが、浄御原宮全体を復元する計画があるそうです。それもいつになるか分かりません。気の遠くなる話かも。
写真を拡大してみたらよくわかりました。
向こうにあるホテイアオイがブルーで埋めつくされていますね。
後ろは畝傍山でしょうか?なかなか良い眺めです。
雨風にさらされた薬師寺の礎石の大きさにも驚いています。
年月を感じさせますね。
真西に畝傍があります。
礎石はまるで歯周病で歯茎が溶けた歯みたいです。いかにも侘びしい感じです。