抹殺された民

しゃがまねば見えぬ蜘蛛塚露けしや
露けしや土蜘蛛塚の苔むして

葛城といえば、鴨氏、葛城氏の故郷。

古墳時代にはおおいに権勢をふるったが、その後歴史から完全に抹殺された民の故郷だ。
それ以前から土着していた「土蜘蛛」と蔑視された土着の民は、まつろわぬ民として東進勢力に徹底的に弾圧されたようで、後世悪霊として再登場させられるなど散々な扱いである。
この土地にまつわり、さまざまな伝説にいろどられた一言主神も、役行者も時の権力から抑圧され、結局は追放の憂き目にあっている。
敗者の常とはいえここまで悲惨な歴史を背負わせられた地域、地方というのは他にはないのではなかろうか。

滅びしものへの哀惜の情は断ちがたく何度も足を運ぶのであるが、今日は図らずも一言さんで偶然土蜘蛛の塚を発見することができた。ただ、案内表示がなければまったくそれとは分からない。というのは、塚全体が低く這った槙の枝に覆われており、しゃがみ込んで覗かなければ塚石の存在さえ気づけないくらいなのだから。

霊泉で浄める

露けしや行場の水の細りゐて

滝行場というにはあまりに水が細すぎる。

北門から石段100ほどを登ったあたりに石垣があり、その中ほどから石樋が伸びていて、そこから水が滴っている。
水を受けているのは小さな池で、睡蓮が育っており、まわりを竹矢来を組んだ結界となっていおる。様子からすると普段は使われないで、何かの行事の時だけ特別に使われる行場かもしれない。
そう言えば、松尾寺には霊泉が湧き、これを厄除け観音として知られる千手観音立像(秘仏)にお供えしているので、この行場はありがたい霊水を浴びるための場であるのかもしれない。

なお、一般にも霊泉は北門をくぐってすぐにいただくことができ、まずは身を清めてお詣りせよということかもしれない。

木の実降る径

石佛の御名をたどりて秋惜む

以前にも書いたことだが、白毫寺境内の奥には石仏の路と称する一画がある。

古い石佛が並ぶ径は山懐に続くので、この時期は木の実がしきりに斜面に降ってきてその転がる音が楽しめる。

露けしや御身欠けたる石不動

石佛の径は10メートルほど行くとすぐに尽きて、そこに不動明王さんが祀られている。
雷にでも打たれたのか、頭部の天辺部分が鋭角に欠けてちょっと可哀想。
御利益があるというので、寄らせてもらって頭を下げてみた。

白鳳伽藍跡のホテイアオイ

露けしや礎石ごろりと伽藍跡

ようやく探し当てた頃にまた雨が降り出した。

平城京の南にあった本薬師寺跡が今ホテイアオイの見頃だというので行ってみた。
金堂跡や東塔跡だけが周囲より高く残されていて、まわりはすべて水田。その水田も耕作調整せざるを得なかったところにホテイアオイを移植したものが、今や30万株ほどまでになったという。東側から西方に畝傍山が見えていかにも藤原京跡だということを実感する。

本薬師寺跡より畝傍を臨む

薬師寺は天武が皇后・鵜野讃良の病気平癒のために発願した寺で、工事は天武の死後持統が引き継いで最終的には文武2年に完成。平城京に移されてからも、伽藍は残されていたと言われる。通常、旧蹟というのは長い年月の間に土に埋もれてしまうもので、だから「発掘」によって遺構調査が行われるが、この寺は逆に今では礎石だけになり、しかもそれが根元から露わになってしまっている。それが折からの雨に光っている姿は単に濡れているを越して大いに哀れを誘うのであった。

本薬師寺跡の礎石

今週また、飛鳥の苑池の遺構とされる発掘調査結果が公表された。多分、この日曜日には一般公開されるだろうから渋滞を覚悟して見学しなければなるまい。

天武ゆかりの神社

露けしや象の小川の屋形橋

万葉に多く歌われた渓流・象の小川そばに桜木神社がある。

象の小川

大己貴命・少彦名命(つまり大国主)と天武天皇を祀った神社で、ごくせまい山あいに建てられているのでさして広くはない。
社名の由来は、天武が壬申の乱のとき大海人皇子として大津から逃れてきたとき討手から身を守るために、とっさに隠れたのがこの社にあった桜の木だったという伝説にちなむ。

桜木神社の屋形橋

屋形橋から桜木神社本殿へ

神社へのアプローチは象の小川を渡ることになるが、両岸に多くの木が覆うようにしているのでたいそう鬱蒼としていて、橋はいったん道路より数段低いところに降りて、渡ったらまた階段を登って境内にあがるようになっていて、屋形とよばれる屋根をかけた大変珍しい形をしている。
このあたりはしじゅう川霧がたちこめ、露にも濡れて湿っぽいうえ、杉など周りの木々から落ちる葉なども散り敷くので、それらから守られているかのようだ。
今年は何句か「露けし」の句を詠んでるが、この橋は文字通り露に濡れがちなのである。

関西花の寺十八番

木漏れさす秋日の像の風化せる
石仏の径に木漏れる秋日かな
露けしや閼伽井の小屋のかたぶきて

今日、明日と台風の影響で雨だというので、昨日奈良市白毫寺に行ってきた。

白毫寺の石仏の路 秋日がやさしい

志貴皇子の別邸跡を寺としたと伝えられているが、はっきりとした確証は得られていない。
ただ、ここも鎌倉時代に叡尊が再建した真言律宗の寺の一つで、本尊の阿弥陀如来坐像をはじめ多くの重文の仏像があるほか、境内には多くの石仏が点在し、本堂奥の「石仏の路」といわれる径には癒やされる思いだ。
春日山の南、高円山の麓の小高いところにあり、西側によく開けているので奈良盆地が一望できる景勝地である。大社から新薬師寺、そして白毫寺へと続く道は山辺の道にもなっていて人気コースである。

花の寺としても知られ、関西花の寺二十五ヵ所の第十八番として春には天然記念物の「五色椿」と秋の萩が有名だ。
お寺自身のホームページはないようなので関西花の寺のサイトを紹介しておこう。詳しくは、WIKIのページのほうがよさそうであるが。

在原寺跡

露けしや歌仙とぶらふ寺の句碑

一叢芒を見ようと天理市石上櫟本町にある在原神社(在原寺跡)を目指した。

在原神社を示す立札

現在は神社になっているが、明治初年頃までは在原寺だったという。ここでも明治の愚策、廃仏毀釈があって本堂、庫裡などは市内の別の寺に移築されたという。創建は9世紀、業平の死後その邸(別邸?)跡に建てられたとされる。

ナビにもないので、道行く人に尋ねたりしてようやく天理IC脇にその跡を探し当てた。
折から雷が鳴り出し、大粒の雨も降ってきて長居はできなかったが、ひとあたり見てくるにも十分すぎるほど狭くて、寺の跡というよりは小さな公園といった風情である。

謡曲「井筒」の舞台でもあり、伊勢物語「筒井筒」に因むという説もある井戸や、一叢芒、夫婦竹(業平竹)もそれらしくしつらえられているのが興味深い。
在原神社の筒井筒
在原神社の一叢芒
在原神社の夫婦竹

ただ、?と思ったのが芭蕉の句碑で、

うぐいすを魂にねむるか矯柳

鶯を魂にねむるか矯柳

調べてもこの句と在原神社との関わりは分からなかった。
逆に歌碑のひとつもないのが言いようもなく悲しいのであった。