大人の遊び

子ら飽きて親盛り上がる花見かな

週末は5月中旬の陽気だという。

公園の見事な桜がちょうど良い具合の日傘になっており、その下で近所の人たちが手近な花見の会を開いているようだ。大人たちが昼酒をながながと楽しんでいる一方で、ジュースやお菓子、お弁当を食べてるまではご機嫌だった子供たちはやがてやることもなく退屈そうにしている。
一緒に散歩というのはいいだろうが、花見の遊びというのは子供につきあわせるにはやはり無理なものがあるようだ

あだ花

ニュータウン輝き褪せて桜老ゆ

戦後いっせいに植えられた各地の桜が衰えを見せているという。

なかには伐採して若い木に植え替える計画もあると聞く。そのほとんどは一代限りの染井吉野だが、実際に衰えたさまを目の当たりにすると、人工的に作られたものってほんとうに弱いものだと思う。
この春、有名国立大学のある駅前の桜通りが全国的に知られる東京郊外の街にたまたま行く機会があり、しかもその日が東京の満開日というだけあって広い駅前通りのそぞろ歩きを多くの人が楽しんでいる光景を目にした。つられて車も大変な渋滞で車内からも桜をゆっくり楽しめたが、10年ほど前に見た光景とは何処か様子が違うような気がしてきた。はたと気がついたのが、木の様子である。盛りの頃には元気な枝を縦横に延ばしていたのが、今ではそのようなボリューム感がない。すっかり枝も衰えてやせ細っているようにも見える。幹がりゅうりゅうとした瘤を見せている一方で、もはやその太さに見合った枝振りではないのだ。

おなじようなシーンは、やはり田園都市線沿いの高級住宅街で10年ほど前にも見られた。
街の高齢化を象徴するように、桜通りの輝きが失われてゆく。
やはり染井吉野という桜は、人のそばでないと生きられないあだ花でもあるのだ。

大阪城公園

吾もまた異邦人らし壕桜

大阪城公園もまた外国人ばかり。

大阪城本丸内堀

お堀越しに本丸が見える場所ではほぼみんながカメラで記念撮影している。かくいう小子も家人を立たせ何枚かをスナップ。大勢の外国人観光客と同様、大阪ではわれら一行も旅行者、異邦人同様なのだった。

東海道急ぎ旅

宝永山さだかに富士の裾霞

東海道は山桜、富士が素晴らしかった。

新東名というのは旧の東名高速より山よりを走るためトンネルが多いことは知られるが、実は山桜の道路でもあった。南アルプスの南の外れの山がトンネルを抜けたと思ったら次々と眼前に現れて、山桜が裾から上まで点々と彩っているさまは、吉野もかくやと思えるくらい見事なものである。急峻な山肌のようだから、きっと長い時間をかけて鳥たちがサクランボの実を運んだのではないだろうか。
ふつう長い静岡県を走るのは退屈なものだが、おかげで今回は往復とも疲れ知らずのドライブを楽しめた。おまけに、この季節には珍しく遠目にも富士山の山肌がくっきりと見えて、裾の方はうすく霞がかかっていたが宝永山の噴火口は鮮明にとらえることができ、その大きさを見ればここから関東各地に大量の灰を降らせたことも容易に想像できるのだった。

体が動くうちは

楤の芽を掻いて臨時の店開ける

ちょっと深いところを走っていると街道沿いに小屋がけの店があったりする。

春には山菜、夏には竹の子、西瓜が、秋には茸が並ぶおなじみの光景だ。
歳とともに多くは並べられなくなったが、それでも体が動くうち、山の恵みがあるうちは続けたい。

今日も予約投稿。

自分で育てる

開いても余るばかりの種袋

花種の一袋でどの程度の花壇の広さが必要となるのであろうか。

限られたスペースでは、たいがいが少し使うだけで大半を余してしまうのが普通だろう。
だから、数多くの種類を楽しむには種を蒔くよりは苗を買うほうが手っ取り早い。

それでも、種から育てる楽しみというのもあって、例えばアサガオなどは子供の頃もそうであったように種から育てるものだと決めつけている。

急に上京することになり、今日明日の分は予約投稿になったので、コメントいただいてもすぐには反応できませんのでよろしくお願いします。

仏様になる

耳遠き妣には聞こえ亀の鳴く

実際に亀が鳴くことはない。

ないが、「鳴く」を空想して一種春のけだるい空気を詠んだりして、浪漫的な興趣を覚えさせる季題である。
老いて耳が全く聞こえなくなるとともに、記憶も随分定かでなくなってきた妣が、あるときついと振り向いて何事か言う。たいがいは人生の一断面をよぎった事柄を思い出してのことであるが、その顔はもう昔の母の顔ではなく、日に日に仏様のように穏やかになっていくように思う。息子はただ頷くだけある。