一変

河津桜目当ての臨時駐車場

今日は朝から冷たい雨でクリニックへ薬もらいに行っただけ。

そこで一昨日のネタになってしまうのは仕方がない。
ふだんなら渋滞がないところを、信号待ち何回か。なぜかな?と考えてみれば近くには県立公園がある。すると、この時期は何だろうかと考える。
梅か?いやこれはもう終わってるはず。そこでまた考える。(渋滞で考える時間はたっぷうりある)。
あ、そうかとガッテンのこぶしを打つ。新名物「河津桜」だ。幼木がこのほど数年で花をつけるようになって年々人気があがってるようだ。たまたま日曜日の人出に遭遇したのが原因。
たしか、越してきてまもなくの春、やたら混むなと思ったらその公園のチューリップ祭とぶつかったのだった。
当地は、平日の道路はスムーズに流れるが土日となると一変する。どこへ行くのか知らないが、あちこちで渋滞にはまってしまう。行楽の少ない土地だけにいったいどこへ出かけるのか不思議でならない。

折り返しバス

山門を桜かざしに浄瑠璃寺

当尾の里は鶯盛り、桜盛り。

浄瑠璃寺の山門はごく小さいが、手前に桜の枝が張り出してまるで花かんざしのようである。
このお寺は一年中花が絶えないが、やはりもっとも美しい時期は秋のようである。
圓内をぐるりと紅葉に彩られ、それがこの世と彼岸を結ぶ池に映えて、まさにこの世の浄土、浄瑠璃世界となる。
いっぽう春は樹木が葉を落としているので世界は明るく、とりどりの花が彩りを添えている。
帰りは鶯に聞き惚れながら折り返しのバスを待つのもまた楽しい。

桜の楽しみ方

桜木を見て花片はみてをらず

足もとから仰いでも個々の花は見ていない。

一週間前は裸木同然だったのが、数日で満開ともなると圧倒される思いに支配される。
これが吉野などならば圧巻の山を前にただ陶然とするばかり。
桜の絵を描けと言われればどんなに細かい描写でも枝振りサイズとなろう。花片単体というのはどんなものかと問われても即答はできないのである。
糸桜、河津桜、いろいろあるが、全体として眺める。それが桜の楽しみ方でもあろう。

三室山

雨に子をやれば桜の散りそむる

花冷えの雨だった。

桜を見に帰っていた娘が東京へ帰って行った。
三室山の遠桜も雨にけぶって今日は見えない。
家の裏手から山の全貌がよく見えるのを知ってからというもの、あらためて三室山の春と秋の変化が楽しみでならない。今日はその三室山の桜を見てから帰るのだという。三室山とそれを巻くように流れる竜田川両岸の桜並木は一見の価値はある。交通の便が悪いのが玉の疵だが、いい思い出になるだろう。

ビギナーズラック

誘はれて桜の下の写生会

あれは四年生になる前の春休みだった。

新学期より水彩画を習うことになっていて、道具一式買ったばかりだった。
クラスの仲のいい友に誘われてさっそく写生会に行くことになった。
絵の具の使い方すら知らずどうやって描いたか、今となってはさっぱり思い出せないが、河原に降りて土手の桜を見上げるような構図だったことだけは記憶している。誰に教わるでもなくよく思い切って大胆に描いたものだと今でも思うが、なんとそれが入賞してしまったのだ。
後日クラスの先生から賞状を渡されてそのことを知ったのだが、まさかの話におどろくとともにおおいに刺激になったことは確かである。
ただ、どうやらそれはビギナーズラックだったようで、その後は鳴かず飛ばず。絵とはもっとも遠い人生となったのである。

標高

植栽の桜めぐむも十年目

何万本という桜が植えられたという。

今も毎年植栽している人たちがいる。
津波到達地点に沿って延々と植樹していくというプロジェクトもあるという。到達した標高地点にいっせいに桜が咲けば、否が応でも人々の記憶に刻まれてゆくことだろう。
口伝ても大事だが、桜の高さが無言で避難先の目安を教えてくれるのである。

もうすぐ満開

濃淡の並木の濃きは花七分
にぎやかに桜散らしの鳥の声
もしかして卑弥呼の墓の桜かな

ヒヨドリは桜の蜜がよほど好きなようである。

先ほどから頭上でしきりに啼きながら花から花へ移っている。それも一羽ではない。
卑弥呼の墓ではないかとも思う黒塚古墳の上に昇ると濠に沿って並んでいる染井吉野が見事である。
桜並木には淡い色の部分とちょっとくすんだような濃い桜色とが混ざり合っていて、どうやらそれは満開かそうではないかによって違うようである。
蕾を多くもった木はどことなく色が濃くて、満開に近い木ほど淡いのである。
下から見上げていると分かりにくいが、高いところから見下ろすとそれがよく分かる。
六分から九分咲きくらいが今の奈良盆地の桜情報であろうか。

親戚に急な不幸があって予約投稿とさせてもらいます。