光る大鴟尾と

大仏殿いよよ華やぎ桜かな

東大寺境内の桜がようやく始まった。

一部の桜はすでに満開状態のものもある。その枝をすかして夕日を受けて金色に光る大仏殿の大鴟尾が眩しい。

心浮き立つ

飛鳥川佐保川堤開花せり

奈良盆地の染井吉野が咲き出した。

句会への途中飛鳥川を渡ると、土手の枝先にちらほら白い花が見える。これはいよいよ開花だなと思って、奈良市内のひとに尋ねると佐保川堤も開花した模様である。
先発のエドヒガンはとうに咲いていてそこの一画だけ弾むように明るい。盆地はやがて染井吉野の華やかな賑わいをみせ、これが一月かけて吉野、宇陀の山中に進んでいくのだと思うとなんだか心が浮き立つようである。

産直店にて

見比べどどれと決まらず花の苗

産地直売のお店。

野菜やお菓子に混じり花苗も並んでいる。素朴なものもあれば豪華なもの、花色も白赤さまざまなでどれも甲乙つけがたく、結局お土産はいつも通り鯛焼き。
あまりに美味しそうな匂いに途中で食べてしまいたい誘惑に駆られるが、何とか我慢してそのまま無事持ち帰ることができた。ここでも花より団子というわけか。やれやれ。

最後に県立万葉文化館に立ち寄ったら、『天上の虹』作品展開催中だったが、時間切れで再度の訪問に楽しみを残しておくことにした。5月31日には作者によるトークショーもあるようである。

花芽進発

牡丹の燭燃ゆるごと芽吹きけり

開花宣言はまだか。

ニュースに注意しているが、どうやら今日も見送りのようだ。もっとも、今日は冬に逆戻りしたような寒さなので開花が足踏みして当然とも言える。さらに、今聞いたばかりの予報では明朝は零下一度だそうだ。真冬並みだ。
桜は足踏みだが、花の女王とも言える牡丹はいよいよ花芽が動き出したようで、炎のような萌えの中に包まれてふっくらとしてきた。

解放感

香も色も指に移して草を摘む

昨日の「野遊」に続き「摘草」である。

場合によると、弁当を持って野遊びを楽しみながら芹などの草を摘んでいることもあろうか。今まで、草摘みしたことがないどころか、草の名さえおぼつかないくらいなのでイメージしにくい季題ではある。

家の中に閉じこめられていた毎日から野に出て遊ぶというのは、現代では想像できないくらいきっと晴れ晴れと開放される気分に満ちあふれるものだったにちがいない。

死語

野遊や手指につきし草の汁

「野遊」は今でいうピクニックのこと。

あるいは、もしかしたら「ピクニック」自体がもう死語に近くて、元の意味では使われなくなったとも言えようか。単に野に遊ぶことに飽きたらず、何らかの行楽を伴った外出というニュアンスでもって漸くピクニックという言葉が存続しえる状態とでも言えようか。
「ドライブ」も同様で、単に車で遠乗りを楽しむというような人はまれで、車で出かけて何かをしたり見たり泊まったりなど何らかの目的のための移動手段に成り下がった現代ではもはや死語だ。車を持つこと自体が目的とされる時代はとっくに終わりを告げているとも言える。Fun to driveというキャッチも、ガソリン高の時代となってはなかなか実感しにくいものだ。

世の中いろいろ便利になっていくのはいいが、一方でささやかでいて健康的な楽しみが少しずつ奪われていくのもどうかと思ってしまう。

鎮魂の吹奏

英霊に喇叭吹かする黄水仙

彼岸の墓参に行ってきた。

校歌に謳われた山も、その前山も遠霞がかかってまさに彼岸日和。
いつものように、連れ合いの親戚の墓にも花と線香を捧げに行ったところ、先にお参りした跡があって黄水仙がたむかれている。七基並んだ墓碑を読むと、それらすべては先の大戦で中支、泰国、比島、レイテ島などアジア各地で命を落とした若い兄弟、従兄弟たちのものである。黄水仙は喇叭水仙とも言われるが、まさに散った英霊の御魂に鎮魂の吹奏を捧げるように花弁を高々と突きだしていた。