葛城の寝釈迦なぞれり秋津島
阿波野青畝の句が好きだ。
青畝は高取町出身で代表作に「葛城の山懐に寝釈迦かな」があるが、この句碑が句会会場の裏手にあるというので取りも直さず拝見となった。この場所に立ってみると金剛、葛城の山が真向かいに見え、なるほど葛城の山容をなぞってみると釈迦の涅槃像のようにも見える。難聴で終生悩んだ青畝にとっては残った感覚の視覚、嗅覚などが作句のより所であったと思うが、まさしくここから見える光景こそ幼少時代から見慣れていた葛城の姿であり、青畝だから詠めた句ではないかと思えるのだった。
この日は、葛城も金剛もシルエットだけしか見えない。昼霞がすべてを覆って神武が国見をしたという春の秋津島が茫洋と広がっている。
今日は東日本大震災から二年、もうというかまだというか。
山人は海地震(なゐ)知らず三一一忌
当地の人に2年前のことを聞いてもあまり切迫感がないような反応が多い。この地が地震に襲われて他国に通じる僅かな道がすべて崩壊してしまったら、救援しようにも数日は入れない状況になるのが見えているのだけど。
“なゐの神”があったんですね。調べてみたら推古天皇7年(599年)に大和地方で大きな地震があって、その後諸国に地震の神(「なゐの神」)が祀られるようになったんだね。
いやはや日本は地震国だというけれど、推古天皇の時代にその記録があって、神様まで祀られるとはね。当時は現代以上に自然の猛威に対する恐れが強かったんだろうね。
今回の東日本大地震を契機に、各地に伝わる地震にまつわる伝承や記録類が改めて脚光を浴びているけど大事だよね。
また、地元にその経験をきちんと伝承し、活かされることも大切だと改めて思うね。
奈良時代というのはたびたび都自身がおそわれる災害・疫病の歴史でもあるんですね。そういった社会不安を鎮めるためにも大仏建設など中央政府も大きな事業を起こしています。
今回の東日本大震災は、かつて人が住んでいなかったところにどんどん進出してしまって、かつての過去の歴史が風化してしまってるのと併せて大きな被害を生みました。考古学や地質学が進んでいますので、そういった成果も活用してさらに過去の記録と向き合うことが大事です。
成程、寝釈迦ってそういうことですか。よく表されてますね。それに寝釈迦そのものが季語なんだ、面白い。阿波野青畝のことも知りませんでした。ホトトギスなんですね。
「寝釈迦」そのものが季語というのはうっかりしていました。掲句の「霞み」は季重なりになりますね。苦し紛れに下五は秋津島にしましたが、う~ん。
青畝というのはわりにユーモアもある句も詠んだりして親しみやすい作家で好きです。山口誓子、高野素十、水原秋桜子と並んでホトトギスの4Sと称されました。好きな作家としては「海に出て 木枯帰る ところなし」の誓子、ずばり「霜柱俳句は切字響きけり」の切れが鋭い石田波郷など。女流でも橋本多佳子の色っぽさとか、今それぞれの句集を取り寄せ中。なんでもこういう類を50冊は詠まなければ、リズムというのが身につかないそうです。
ホトトギスの4Sですか。いいですね。それにしても50冊ですか、そうなんでしょうね。頑張ってください。