ものには限度というものが

いま少し遠慮もしやれ蝉時雨
蝉時雨けふは誰とも話すなく
人は社会動物なるぞ蝉時雨

「蝉時雨」は文字通り、頭上から降り注ぐ蝉の鳴き声をいう。

が、実際には周りが低木ばかりでもうるさいほど鳴いていることがあり、「降る」ことにこだわらなくてもいいように思う。
現に、こんな風にあえてことわりを入れたような句がある。

いと低き幹にも蝉や蝉時雨 富安風生

ちなみに、ここ一週間ほどの朝は、油蝉たちが庭の木にやって来ては鳴き交わしが始まり、これが棟と棟との間で反響してさらに増幅してしまうので会話やテレビのニュースも聞き取れないほどだ。ものごとには限度というものがあるようで、ワンワンとした鳴き声に加えて、シンシンと共鳴するような不思議な周波数の音が、耳をというか、体全体を包み込んて、これが苦痛に感じるようになっては蝉時雨の本意から逸れてしまうような気がしないでもない。
ここ数日、10時頃になって静まるのを待って、やっと窓を開け放つことができる。

“ものには限度というものが” への2件の返信

  1. 早朝から裏で玄関で蝉の大合唱に悩まされています。
    朝ドラのセリフもかき消されてついついボリュームを上げざるを得ません。

    我慢も限界、そして今夜は大音響、こちらは心地よい空間。
    「コンチェルトの夕べ」と題したコンサート。
    一夜でピアノ協奏曲三曲の豪華版。
    大好きなラフマニノフ二曲とチャイコフスキー、日ごろの鬱憤を晴らしました。
    嗚呼、最高!!これぞ暑気払い・・・

    1. ミンミンゼミはまだのようですが、あれが加わったらどうなるんでしょ。

      同じ大音声でも、コンサートホールとなると全くの別世界。涼しくなって帰られたのは何よりです。

      明日は、猛暑の中の吟行です。ひたすら日陰を求めての一日になります。

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