供華

供華台に位置定まりて花菖蒲

唐招提寺では、僧を除く職員のことをことさら特別な職名で呼ぶことはないそうである。

例えば、東大寺では二月堂修二会における童子などあるが、そういうことは一切ない。
このことは作句する場合にはちと厄介で、単なる「寺男」では勅願時レベルの大寺には何となく不向きだし、誰それがどうした、という類いの句は作りにくいかなと思う。
例えば、掲句だが、これは「唐招提寺」と染め抜いた法被を着た年かさの職員が、若い職員に指示しながら供華台に乗せる花瓶の位置や向きを細かに指示している様子をみたものだが、それをそのまま17文字に閉じこめるのはかなり窮屈になる。

一方で、各お堂への供花を準備しているのは作務衣を着た学僧、作務僧だったので、

作務僧の供華に切り詰む花菖蒲

と誰それがどうしたという風には詠むことはできる。

前者の場合こそ作句力が試されるケースだと言えようか。

“供華” への4件の返信

  1. 寺の男衆が花をお供えしている情景なのですね。
    花を手向ける様子が伝わります。
    東大寺の修二会のようなしきたりがあるのでしょうか?

    1. 各お堂の仏様への供華ですね。毎日かあるいは周に何度かの定例のお務めでもあるわけです。特別なことではありません。
      特別と言えば、先月、「うちわ撒き」という行事が終わったばかりです。鎌倉時代の高僧が「蚊といえども打ち殺してはいけない、団扇で追えばいいことです」と弟子を戒めた故事に習い毎年行われてきた行事です。

  2.  吟行句で、みんながおなじものを見ているという前提があって成り立つ句もありますよね。
    行ったこともない場所や一度や二度それも漠然と見ただけでは、句の解釈も浅くなってしまいます。
    テレビなどで見るのと現場とでは大違いでしょうからね。
    できるだけ実際に観ること、観察力を深めるようにすることを心掛けたいです。

    1. 本来の姿からすると、一緒にいなくても「共感」「共有」しあえる「普遍性」をもつことが大事ですよね。
      それこそ、その場にいたものでないと理解できないものは「独りよがり」「独善」とのそしりを受けることになります。
      普遍性をもつには「客観」的であることが求められるわけで、主観ばかり全面に出されても受けようがなくて困ることが多々あるわけです。そのためには事実に基づくこと、この目で見たものの力には敵いません。ぜひ頑張ってください。最近の句を拝見すると、そろそろ本格的な腕試し、俳句誌への投稿を始められることをおすすめします。

      吟行などその場に立てば紛れもなく作りやすいのは事実です。ただし、人生経験を深めた人、日常から細かな観察を欠かさない毎日を送っている人は、たとえ病床にあっても作句可能だという事実は重いです。どれだけ「自分の引き出し」を持っているか。あるいは持つことができるか。そのひとの人生に向かう姿勢、生き方そのものだと思います。

      また、共有しあえるという点について、短歌とは違って、俳句とは共有、共感の文学ではないかと思うのです。ただ、「共有」といっても全く同じイメージや感想を持つ必要もないわけで、発句された時点でもう作者の手を離れ、読み手のものになるのが面白いところです。
      だから、人によって様々な解釈が生まれ、好き嫌いも生じる。
      句会でいかに評がばらけるか、これはまさに詠み手と読み手とが共有する面積、接点がさまざまに異なっていることを示しています。この接点の広がりや奥行きの有無などがいい句かそうでないかの基準でもあるんでしょうね。

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