憐憫の目

ほとりせばそのかみの香に栗の花

お恥ずかしい話だが、今日車に乗ろうとして眼鏡がないことに気づいた。

最近は夜に運転するときしか眼鏡を使用しないので、いつもはケースごと車に放り込んである。
それが、午後から花菖蒲を見に行こうとなって、午前中いっぱい文庫本の細かい字を読んでいたせいか、目がしょぼつくので眼鏡ケースを開けてみたら中が空っぽなのだ。
「や!これは」。
最近使ったのは何時かはとっさに思い出せた。
先週土曜日「古代出雲とヤマト王権」展をみに行った「近つ飛鳥博物館」に忘れてきたに違いない。展示ケースのなかの説明文を読むために眼鏡を使ったのは間違いないからだ。で、電話で尋ねてみると落とし物の届け出にはないという。さあ、困ってしまった。
博物館から帰って車を降りるとき、バッグから眼鏡ケースを取り出していつものように車のダッシュボードに置いたのは間違いないから、どう考えても博物館から自宅に帰り着くまでに落としたはずだ。
自分の目で確かめてそれでないなら諦めもつくだろうと、花菖蒲の観賞もそこそこに博物館に行ってみることにした。

雌花の小さな突起はもうすでに固くて痛い。これが毬になるのかな。
雌花の小さな突起はもうすでに固くて痛い。これが毬になるのかな。

写真の栗の花は博物館の前で当日撮ったものだから、まずは撮影場所を探してみるが、ここにはない。
先日館内を巡ったコースに沿って、トイレも含めて探してみたがやっぱりない。

肩を落として帰ろうとしたとき、「そうだ、あの日は梅雨寒の日だからジャケットを羽織っていたはず」「もしかしたら」と、家人に電話したら、果たして、ポケットにあるというではないか。
「何という不覚」「焦って大阪まで行くことはなかった」「何とそそっかしいことよ」。

自分でも馬鹿さ加減にあきれてしまうが、いいように考えれば数日前のことをちゃんと「思い出すことができた」のである。
家人からは憐れみの目を向けられたが、今のところ記憶の方は大丈夫なんだと妙に安心するのであった。

“憐憫の目” への4件の返信

  1. 同じような経験がありとても笑う気にはなれません。
    でも今日の句は微笑ましくて笑ってしまいました。

    私にはもっと悲惨な経験が山ほどにあり誰にも話せない程の情けない出来事もあります。
    連れ合いには「失敗談はもう聞きたくない」と言われる始末。
    悲しいかな、今更このおっちょこちょいは終生治らないような気がしてなりません。
    命に関わる事こと以外は諦めモードです。

    1. これでブツが出てきたからいいんですが、そうでなかったら悲壮な結果に。ことあるごとに今日の話を持ち出されるのは必定。面目をほどこせて、よかったあ。

  2. 眼鏡、出て来てよかったですね。それだけ順序立てて思い出せるってすごいですよ。全然問題ないですね。何故眼鏡ケースに入れずにそのままポケットにしまったのか、、、その時の状況が頭をよぎったのでしょうか。

    栗の花、正しく今ですね。もう大分大きくなってきましたね。雌花(栗の実)に比べあれだけ大量の雄花が必要か、不思議です。

      世の人の見付けぬ花や軒の栗

      (奥の細道@須賀川 ちょうど6月10日ころです)

    1. たまたま道路にかぶさるように栗の木があったので、花の詳細が観察できました。普段はここまで見えないですね。
      たしかに、大半が雄花で雌花というのは枝先の一本だけ。
      一つの雌花には三つの房があるそうです。これが実に太るわけですが、これを「三つ栗の」と言って「中」にかかる枕詞。そういえば毬の中には実が三つ入ってますが真ん中のが一番大きいですね。

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