麦飯の菜漬に包む腰弁当
新緑の吉野へ行ってみた。
二日前の雨もあって、宮滝の柴橋から眺める吉野川の水量も十分。橋のたもとに立つと頭の上から鶯の賑やかな声がする。桜の木の上の方にいるのも珍しい。
さらに奥の國栖まで行くと、和紙の他に、割り箸作り、木工細工など豊富な森林資源の恵みを浴びた工房も多い。
この辺りから、大台ヶ原へは50キロ、R169下北山村経由熊野へは100キロという標識が目に入ってくる。
一昨日の雨で十津川村経由熊野行きの道(R168)が土砂崩れでまた不通になったという。龍神温泉経由の道に迂回しなければならなくなったが、こちらの169号線は健在のようだ。
改めて調べてみると、自宅から大台ヶ原までは80キロたらずで、2時間少々で行ける計算になる。30年ほど昔に、恩師と取材旅行した記憶がいまだに鮮明に残っており、ぜひ再訪したい場所だ。前回は初冬の雰囲気に覆われている時期だったので、紅葉がいい頃に行けば素晴らしい眺めが期待できそうだ。
大台ヶ原から望める景色はひたすら山また山。たたなう熊野の山々だ。この山中でかつて林業の盛んだった昔、竹の水筒に麦飯の目張り寿司、あるいは厚めのアルマイト弁当箱の麦飯の上に鯵の丸干し一本を詰めたものを腰に巻いて、熊野の杣人たちは山に入ったものだった。
帰途は大宇陀へ出る道を選んだ。大海人皇子が桑名へ向けて吉野を脱出したルートである。
吉野町の外れ、宇陀市との境近くで「三茶屋」という地区の名前が目を引いた。「さっさや」と読むのかと思ったが違った。「みっちゃや」と読むようである。
國栖、くず?くにす?どちらでしょう。
熊野へ通じる道は色々あるのですね。
先日三重テレビで熊野古道が世界遺産に登録されてから10周年(2014年)と言うことで再放送を10回に渡り放映したのを見ました。
熊野は憧れの聖地です。
十津川村は司馬さんの「街道をゆく」で読んだくらいで何でも大水害により村落の大部分が壊滅状態になり北海道へ移住して新十津川村を開いたことを知りました。
三重もこんな所に村落が?と思える場所がありますが奈良も負けてはいませんね。
過疎という意味では、圧倒的に奈良が勝ちです(笑)。
熊本の地震で一躍知られた「中央構造線」ですが、これが四国山脈を経て吉野川、高見山のあたりを通っていますが、その構造線から南は山また山。熊野に続きます。
雨の多さが全然違います。雨雲はもっぱら構造線の南を走りますが、北側を通ることはあまりありません。大和盆地に雨が少ない所以です。
読みは「くず」です。
國栖(または国栖)は大海人皇子の吉野脱出を助けたことで有名で、かつて毎年宮中で奉納されていた「国栖奏」が中断されて以降は天武ゆかりの浄御原神社で毎年奉納されます。
国栖は、かつて応神天皇が来たとき先住の国栖人が酒でもてなした故事があり、以降天皇家とも深い関係をもったようです。
熊野から侵略してくると国栖は大和への入り口ですから、東征族とよしみを結んだ先住民族かも知れませんね。
写真を見て昨年行った宮滝を思い出しました。付近で何か昼食をと思ったのですが何もなくお菓子でお腹をごまかしました。新緑がきれいでしょうね。雨で水量も多かったのでしょうか。
三茶屋は面白い、茶店が三軒ほどあったということですかね。長谷寺に通じる道でしょうか。私は談山神社経由帰りました。
ご名算です。調べると、
「三茶屋の集落は、東西に走る伊勢街道と、南北に通じる宇陀・吉野を結ぶ街道の交差点に位置し、古来より交通の要衝として発達したところです。かつて、この集落内に上茶屋、中茶屋、なかやと呼ばれる三軒の茶屋があって、紀州徳川候が参勤交代のおり、ここで中食をとるところと定められていたことから、三茶屋と呼ばれるようになったといわれています。」
紀州藩の参勤交代はさぞ難儀であったことでしょう。