晩生

合歓咲いて峠いくつも伊賀国

つくづく合歓の花の盆地だと思う。

伊賀の峠はどこもいま合歓の花盛りだ。
翁が象潟で詠んだ、
象潟や雨に西施がねぶの花 芭蕉
が合歓の花の代表句である、合歓の花の描写がいっさいなくて唐突に出てくる花が実景かどうか知らないが、単に「ねぶ」に眠るをかけたかっただけじゃないのかと推測している。奥の細道は相当な部分が創作だから、まんざら外れではないだろう。
また、伊賀で身近であった合歓の花が伏線になっていたとも言えるのではないかとも思える。
ところで、合歓の花の盛りを過ぎる頃に豆を蒔けと古くから言われてきた。
この豆とは大豆のことである。日本人は枝豆が好きだから早生タイプの豆を莢の若いうちに収穫するが、枝豆用は4月ごろ蒔くものである。
短日性が強い丹波の黒豆も7月中旬ごろが植えごろだそうである。これは、晩生。

花の行く末

隠しなき翳りきざして合歓の花
花合歓の水面に落とす老の影

あの扇のような形をした花が散っている。

木の上にあるときはまるで美人の睫のようでもあり、雨に濡れれば愁いに沈む西施の風情さもありなむである。
が、美人薄命のたとえの通り、さすがの花合歓もいつかは衰える。
地面に落ちて、雨に叩かれるのは見るさえ無残。

雨のかんばせ

花合歓やまつげこぼるる雨しずく

合歓の花とくればどうしても芭蕉のあの句が立ちはだかる。

象潟や雨に西施がねぶの花

雨に煙る象潟に沿うように咲いていて、伏し目がちの風情に気品あふれる合歓の花であったのであろう。
今日の雨の日、合歓の花を間近に見るチャンスがあった。高く育つ木なのでたいていは下から見上げることが多いのだが、今日はまだ幼木というか若い木だったので手にとって眺めてみた。

まるで、ぱっちりしたお目々のまつげだ。
これが雨に顔を曇らせている美人の愁いのかんばせの小道具だったのだ。

伊賀の夏の花と言えば

伊賀越のおぐらき峠合歓の花

津から国道163号線の長野峠を経て伊賀に出た。

伊勢の斎宮歴史博物館に立ち寄ったので、下道をゆくついでに今まで走ったことのない道を抜けようと思ったからだ。
この道路は「伊賀街道」と呼ばれ、藤堂藩が伊賀に支藩をつくったときに整備された全長50キロの道だという。
峠の名前にあるように、峠の手前に長野という地区があり、ここはかつて安濃郡長野村と呼ばれ、その後合併して安芸郡美里村、そして昭和の大合併で津市に編入された。
昭和30年代の頃、交通手段も限られていた頃は、津の市街地に出るのに一時間くらいかかる山の奥地という感じだった。冬に雪が降るなどすれば出てこれない日もあるくらいで、子供ながらどんなに不便な処なんだろうと思っていた。
峠は平野と盆地を分ける分水嶺みたいなもので、平野に流れれば雲出川、盆地に流れれば木津川に合流する支流という具合だ。

今では、峠に替わってトンネルが通じているが、これを抜けると渓流沿いの細い九十九折の道が続く。雰囲気からすると夕にでも通れば蛍でも出てきそうなものであるが、もともと交通量が少ないので、夜などはちょっと怖いかもしれない。
注意しながら下ってゆくと、渓谷に沿って今は合歓の花が盛りであった。木洩れ日のさす花は眩しいように明るく、道案内のように点々と続くのであった。
この渓谷は服部川と呼ばれるので、あの忍者の半蔵ともゆかりがある地域なのかも知れない。

盆地に出て名阪道に入ると、ここもこの時期の定番合歓の花が通りかかる大型トラックの風圧に揺れる、揺れる。
伊賀越えの今は合歓の花が旬なのである。

名花の小道具

花の綿そよいで合歓の風を呼ぶ
合歓の花蘇州夜曲の羽扇

合歓の花もそろそろ終わるかという頃である。

森の中の合歓の花

あの特徴ある花を近くでのぞいてみた。まるで宝塚のダンサーの髪飾りのようでもあり、懐かしくもあの李香蘭が歌い出しにスポットライトがあたった扇から顔をのぞかせるという、演出効果たっぷりの小道具としての羽扇のようにも見える。なんとも優美でいて派手でもある花である。

歌手としてよりも議員としての活動の方がおそらく長いが、やはり山口淑子ではなく李香蘭のほうが印象に強い。

国見

合歓の花今を盛りの峠越ゆ

今の時期名阪国道の山地部分は合歓の花が盛りである。

とくに奈良県側には多くて、陽が高い時分だと梅雨明けの今ことのほか花が輝いて見える。
窓の外に飛び去る景色を楽しんでいるとやがて峠にさしかかり、眼下に大和盆地、遠くに生駒や二上山などが見える急坂の下りが始まる。今風の国見気分ではある。